コフィー・アナン国連事務総長
ノーベル平和賞受賞講演
プレスリリース 01/104-J 2001年12月14日
~2001年12月10日 オスロ~
今日、アフガニスタンで1人の女の子が生まれるでしょう。母親は、世界中のどの母親もそうするように、赤ちゃんを抱き、 乳を与え、彼女をあやし、そして世話をします。このような、人間の本質の最も基本的な行為に関しては、人々の間に何の格差もありません。しかし、現代のアフガニスタンに女の子として生まれたことは、人類のごく一部だけが達成した繁栄から何世紀も遅れた人生をスタートすることを意味します。それは、今このホールにいらっしゃる方々から見れば、非人間的といえる状況での生活です。
私は今、アフガニスタンの女の子について話していますが、シエラレオネで生まれる幼い男の子、女の子にも全く同じことが言えるでしょう。裕福な人々と貧困に喘ぐ人々との間にこのような格差があることを、今ではすべての人が知っています。財産のない貧しい人々が、世界における貧富の格差のために多大の犠牲を払っている現実を、誰も無視することはできません。人間の尊厳、基本的な自由、安全、食糧および教育を享受する権利を持つに値するという点では、貧しい人々も私たちと全く同等なはずです。しかしながら、犠牲を払っているのは貧しい人々だけではありません。結局、私たち全員が払うのです。北も南も、金持ちも貧しい人も、男性も女性も含めた、あらゆる人種と宗教のすべての人々です。
現在の本当の格差は、国と国の間に存在するのではなく、強者と弱者、自由な者と自由を奪われた者、特権を持つ者と持たざる者との間に存在します。今や、世界の一部地域で起こっている人道上あるいは人権の危機を、別の地域における国家安全の危機から切り離して考えることはできません。
科学者が言うには、自然界は小さくてあらゆるものが互いに強く依存しているので、アマゾンの密林で蝶が羽をはばたかせたことが地球の反対側で激しい嵐を起こすこともあり得ます。この原理は「バタフライ効果」として知られます。今日私たちは、良くも悪くも、人間の活動の世界にも「バタフライ効果」があることを今まで以上に強く認識しています。
私たちは炎のゲートをくぐり、3番目の千年期に入りました。9月11日の恐怖を体験した今、より慎重に、より深く物事を見れば、私たちは人類を分断することなどできないことを悟るでしょう。新たな脅威の下では、人種、国家または地域による区別はありません。新たな不安が、財産や地位に関係なくあらゆる人の心に入り込んだのです。繁栄を享受する人々も、苦難の中にいる人々も繁栄を享受する人々も含めたすべての人間をつなぐものが何であるかを改めて認識することに対して、老若男女を問わず皆が関心を持ち始めたのです。
21世紀は、世界の平和と繁栄に向けた進歩の世紀として期待されましたが、その希望はすでに打ち砕かれました。21世紀のはじめに、この新しい現実を無視することはできません。その現実に立ち向かわなければなりません。
20世紀は、無数の闘争、語られない苦しみ、そして想像を絶する犯罪によって荒廃した、恐らく人類の歴史で最も悲惨な世紀でした。集団や国家が、他者に対して極限の暴力を繰り返し加えました。その多くは、不合理な憎悪と疑心、際限のない傲慢、あるいは権力や財産への欲望によって引き起こされました。激変するこれらの事態に対して、20世紀の半ば、世界の指導者達が国家の連合のため一同に会しました。これは歴史上初めてのことです。
そして、国際連合というフォーラムが創設されました。国連では、すべての人間の尊厳と価値を確立するため、且つすべての民族の平和と発展を保証するために、すべての国々が力を合わせることができます。法の支配を強化し、貧困に喘ぐ人々が何を必要としているかを認識してそれに対処し、人間の残忍性と欲望を抑制し、天然資源と自然の美を保護し、男女の平等を維持し、さらに将来の世代に安全な世界を引き継ぐために、各国が連合することが可能になりました。
こうして私たちは、科学的および技術的な力と共に、政治的な力を20世紀から受け継ぎました。私たちにそれらの力を活用する意志さえあれば、その力によって貧困、無知および病気を克服できるはずです。
21世紀における国連の使命を定義するものは、人種や宗教を問わずすべての人命の尊厳を改めて深く認識することである、と私は信じます。この使命を果たすには、国家の枠を超えた視点、また国家や共同体の根底に流れるものを見極める視点を持つことが必要です。国家に豊かさと個性をもたらす人間一人ひとりの状態を改善することに、今まで以上に集中しなければなりません。私たちは、1つの命を救うことが人類そのものを救うことでもあるとの認識の上に立って、まずそのアフガニスタンの乳幼児を救わなければなりません。
過去5年間に私がしばしば想起したのは、国連憲章が「われら連合国の人民は」という言葉で始まることです。忘れられがちですが、「われら連合国の人民」を構成するのは個人です。そして個人の最も基本的な権利への要求が、国家利益と信じられているもののために犠牲にされる例があまりに多く見られます。
大量殺戮は、ひとりの人間を、その行為ではなく存在そのものを理由にして殺すことから始まります。「民族浄化」運動は、あるひとりの人が隣人を攻撃することから始まります。貧困は、教育を受ける基本的な権利をたった1人の子供に対して否定することから始まります。ひとりの人間の尊厳を無視したことから始まった現象が、しばしば全世界にとっての災難に至るのです。
この新しい世紀に、私たちはまず、平和は国家や民族だけに属するのではなく、それらの共同体を構成する一人ひとりにも属するということを理解しなければなりません。国家主権という大義名分で深刻な人権侵害を行うことは、もはや許されません。平和は、助けを必要とする全人類の毎日の生活の中で、実感でき、目に見えるものでなければなりません。何よりもまず平和を追求しなければならない理由は、人類という家族のすべてのメンバーが尊厳を持ち安全に生きるために、平和が必須条件だからです。
個人の権利は、アフガニスタンの女性やアフリカの子供たちにとってそれが重要であるのと同じくらい、ヨーロッパおよび南・北・中央アメリカへの移民や少数民族にとっても重要です。個人の権利は、裕福な人々にとっても貧しい人々にとっても等しく基本的なものです。個人の権利はまた、先進国の安全にとって必要であるのと全く同様に、開発途上地域の安全にとっても必要です。
21世紀の国連の役割に関するこのようなビジョンから、未来に向けての最も重要な課題が3つ生まれます。貧困の根絶、紛争の防止、そして民主主義の促進です。貧困が根絶された世界においてのみ、すべての男女が自分たちの能力を最大限発揮することができます。個人の権利が尊重される状況においてのみ、人々の間の相違を政治的に結び付け、平和的に解決することができます。多様性と対話の尊重に基づく民主的環境でのみ、個人の自己表現および自治を保証し、結社の自由を維持することができます。
私は事務総長としての任期中、常に、すべての事柄 ― 紛争防止から開発、人権問題に至るまで ― について、人間を中心にした視点を貫くよう努めました。一人ひとりの生活に恒久的な真の改善を確実にもたらすことが、私たち国連が行っていることです。
この精神に基づき、私は百周年のノーベル平和賞を謹んでお受け致します。今日から40年前の1961年12月10日、ノーベル平和賞が初めて国連の事務総長に授与されました。しかし、そのハマーショルド事務総長は中央アフリカの平和のために既に命を捧げていたため、賞は彼の死後に与えられました。1960年の同日には、ノーベル平和賞が初めてアフリカ人に授与されました。南アフリカ共和国のアパルトヘイトに対する戦いを最も早くから主導してきたルトゥーリ氏です。その数カ月後に国連での勤務をスタートした、ひとりの若いアフリカ人であった私にとって、その2人が築いた基準こそが、私の職業人生すべてを捧げて継承しようと努めたものなのです。
この賞は、私だけのものではありません。私はここに、一人だけで立ってはいません。地球のあらゆる地域で、国連のあらゆる部門で、そして多くの場合に平和のために生命を危険にさらし、時には命を落としながら、職務に情熱を傾けてきたすべての同僚たちを代表して、私はこの素晴らしい名誉を与えて下さったノーベル委員会委員各位に感謝申し上げます。私がこれまで国連での業務を遂行できたのは、私の家族、そして私を教え導いてくれた世界中の多くの友人 ― その一部はすでに故人でありますが ― の犠牲とコミットメントのおかげです。私は彼らに、心の底から感謝しております。
戦争兵器にあふれ、戦争という言葉が蔓延している今日の世界で、ノーベル委員会は、平和実現の上で非常に重要な役割を担うようになりました。残念なことですが、この世界では平和のための賞は大変希少なものです。ほとんどの国には、戦争の記念碑や慰霊碑、英雄的戦闘を象徴するブロンズ像、あるいは凱旋門が建てられています。しかし平和には、パレードも勝利の建造物もありません。
平和に与えられるのは、ノーベル賞です。ノーベル賞は、その独自の響きと威厳の上に成り立つ、希望と勇気の表明です。国連に属する私たちが、本日与えられた名誉に恥じない行動をし、また国連創設者のビジョンを実現するには、平和、尊厳、および安全を求める人々の願いを理解してそれに対処することが唯一の道であると私たちは信じます。これは、国連職員が世界のあらゆる場所で日々遂行する、大いなる平和の使命です。
そのうち何人かが本日、このホールに来ています。その中には、例えばセネガルからは、コンゴ民主共和国で基本的な治安を維持することに協力している軍事オブザーバー、アメリカ合衆国からは、コソボで法の支配における改善を支援している市民警察アドバイザー、エクアドルからは、コロンビアで社会的弱者に権利を保証する手助けをしているユニセフ児童保護官、そして中国からは、朝鮮民主主義人民共和国の国民への食糧援助を行っている世界食糧計画(WFP)の職員です。
ある1つの民族だけが真実を所有する、世界のすべての苦悩に対する答えが1つだけある、または人類が必要とするものへ解決策は1つだけである、という考え方は、人類の歴史上、特に前世紀中に多大な害をもたらしました。しかしながら、人間の多様性が対話の必要性を生むという現実がある一方で、その多様性こそが対話のための基礎でもあるという認識が、世界中で民族紛争が続く今日においてさえますます広がりつつあります。
私たち一人ひとりが、普遍的人間性にとって不可欠の敬意および尊厳を受けるに値するということを、私たちはかつてないほどはっきり理解しています。私たちは、自分が多数の文化、伝統、記憶の産物であることや、相互に敬意を払うことによって他の文化から学ぶことができるということ、そして自分と同質なものに異質なものを組み合わせることで新たな力が得られるということを認識しています。
寛容と相互理解の重要さは、すべての偉大な信仰および伝統の中で唱えられています。例えばコーランは、「私たちは一組の男女から汝らを創造し、汝らが互いに知る国家や部族に姿を変えさせた」とあります。孔子は信者たちに、「国中が良い状態のときは、大胆に話し大胆に行動しなさい。国が不安定なときは、大胆に行動し柔和に話しなさい」と説きました。ユダヤ教の伝統では、「汝自身を愛する如く汝の隣人を愛せよ」という戒めがトーラーの最も本質的な部分とされています。
この考えはキリスト教の福音書にも反映されています。福音書もまた、私たちの敵を愛し私たちを迫害しようとする人々のために祈るよう説いているのです。ヒンズー教には、「真実は1つです。賢者はそれに様々な名前を与えました」という教えがあります。さらに仏教徒の伝統では、人は人生のあらゆる場面で同情をもって行動しなければならないとされます。
私たちひとりひとりが、自らの特定の信仰や伝統を誇る権利を持ちます。しかし、自分の信仰や伝統が他者のそれらと必然的に対立するとの概念は、誤りであり、かつ危険です。そのような概念は、際限のない敵意と紛争を生み出し、より高い地位という名の下に信者が最悪の罪を犯すことにつながったのです。
本来、そのような結果にならなくてもよいはずです。世界のほとんどの場所では異なる宗教や文化の人々が隣り合わせに暮らしており、私たちの大部分は大きく異なる集団と自分とを結ぶ、複数のアイデンティティを持っています。私たちは、自分と異質の物や人を嫌悪することなく、今ある自分を愛することができます。私たちは、他者から学び他者からの教示を尊重しつつ、私たち自身の伝統の中で繁栄することができます。
しかしながら、このことは、宗教、表現、および集会の自由、そして法の下の基本的平等なしには不可能でしょう。実際、前世紀の体験から私たちが得た教訓は、個人の尊厳が踏みにじられ脅かされている地域や、政府を選ぶ基本的権利、または政府を定期的に変える権利を市民が享受できない地域では、紛争が起こるケースが非常に多く、罪のない民間人が犠牲を強いられ、命を絶たれ、さらにコミュニティが破壊されるということです。
民主主義を阻むのは、文化や宗教そのものではなく、あらゆる手段を使って自分の地位を守ろうとする権力者の欲望です。これは決して新しい現象ではなく、世界の特定の地域に限られた現象でもありません。どのような文化の中でも、人々は選択の自由を重んじ、自らの生活に関わる事柄を自分で決定する権利を持つことが必要だと感じています。
国連は世界のほとんどすべての国が加盟しており、すべての人間に等しく価値があるとの信念の上に成り立っています。国連は、すべての国家および人民の利益の問題を扱う代表機関としては、今ある中で最も確立された存在です。国連は、人類の進歩において普遍的かつ不可欠な道具です。国々がこの道具を通してお互いの共通の利益を認識し、その利益を追求するために協調することによって、それぞれの国が自国民に利益をもたらすことができます。だからこそノーベル委員会が「世界の平和と協調の実現は国連を通してのみ可能であるということを、ノーベル賞百周年記念のこの年に宣言する」と表明したのです。
グローバルな挑戦に立ち向かうこの時代に、残された唯一の選択肢がグローバルなレベルの協力であるということもまた、ノーベル委員会によって認識されたのだと私は信じます。国家が法の支配を徐々に破壊し国民の権利を侵害するとき、その国家は自国民にとっての脅威となるだけでなく、隣国、そして現実に世界全体にとっての脅威となります。私たちが今日必要とするのは、より良い統治です。個人の繁栄と国の繁栄の両方をもたらす、正統で民主的な統治です。
私はこの講演の始めに、アフガニスタンで今日生まれる女の子について話しました。母親は必死に赤ちゃんの命を守り、できる限りのことをするでしょう。それでも、その子が5回目の誕生日を迎えることなく亡くなる確率が4分の1もあるのです。この女の子が5歳まで生き延びられるかどうかは、私たちすべてに共通する人間性が試される、そして人類の仲間である個人個人の責任に対する私たちの信念が試される、ある1つの事柄に過ぎません。しかし、そのような事柄こそが、意味のある唯一のものです。
この女の子のことを思い出せば、私たちのより大きい目標、つまり貧困との戦い、紛争の防止、病気の克服は、決してはるか遠くにあるわけではなく、また不可能ではないように思えてきます。実際、これらの目標は私たちのすぐ近くにあって、十分達成できるように思えます。また、本来そうであるべきです。国家、思想、言葉という目に見える事象の下に横たわるのは、助けを必要とするひとりひとりの運命です。彼らのニーズに応えることが、来たる世紀における国連の使命といえるでしょう。
ご清聴を感謝致します。