11月29日は「パレスチナ人民連帯国際デー」です
2011年11月28日
今から64年前の1947年11月29日、国連総会は決議181により、イスラエルとパレスチナの二国間共存というビジョンを打ち出しました。現在、イスラエルという国は存在しますが、パレスチナという国は存在しておらず、パレスチナの人々は今も民族自決という不可侵の権利を求め続けています。その後の1977年、国連総会で11月29日が「パレスチナ人民連帯国際デー」と定められました。
以下に、パレスチナをめぐる動きと、国連をはじめとする国際社会が和平のために行ってきた主要な取り組みをご紹介します。中東のパレスチナ問題とは何かについて考える一助にしていただければ幸いです。
パレスチナ問題の歴史
国連が1945年に設立されたとき、キリスト教徒、ユダヤ教徒、およびイスラム教徒の聖地であるパレスチナの土地は、1922年の国際連盟による委任のもとで英国が統治していました。
1947年に英国の委任統治が終了すると、国連総会は決議181 (Ⅱ)により分割案を出しました。独立したアラブ国家とユダヤ国家、そして聖都エルサレムについては特別な国際的地位を認めるという構想でした。
1948年、イスラエルと近隣アラブ諸国との間の戦争により、約75万人のパレスチナの人々が家を追われ、難民となりました。
1948年、イスラエルが建国されました。
しかし、パレスチナという独立のアラブ国家は、未だ誕生していません。
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戦争、混乱、避難
1967年に勃発したアラブ・イスラエル戦争後、イスラエルはガザ地区と東エルサレムを含むヨルダン川西岸、およびエジプト領シナイ半島とシリア領ゴラン高原を占領しました。これにより、少なくとも50万人のパレスチナの人々が家を追われました。その約半数は、1948年に続いて二度目の避難となりました。
中東での戦争によって多くの人々の暮らしが崩壊し、立ち退きを余儀なくされました。60年以上も難民問題が生じることになったのです。
安全保障理事会は1967年に決議242を採択し、1967年戦争により占領された地域からのイスラエル軍の撤退とあらゆる交戦状態の集結、および地域のすべての国家の主権、領土保全、政治的独立、並びにこれらの国家が安全かつ認められた国境内でいかなる脅威や暴力行為にさらされることなく平和に暮らす権利を認め、尊重することを求めました。
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パレスチナ難民:どこで暮らしているか
パレスチナ難民への緊急支援を目的として、UNRWA(国連パレスチナ難民救済事業機関)が1948年、国連総会により設立されました。
今日、UNRWAに登録されているパレスチナ難民490万人はヨルダン、レバノン、シリア、およびパレスチナ占領地に住んでいます。なお、パレスチナの人々は世界全体では800万人以上いると推定されています。
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パレスチナの人々に対する国連の支援
国連は専門機関やプログラムを通じ、パレスチナの人々に対する支援を続けています。
- The World Bank(世界銀行)
パレスチナにおいて小規模企業を支援し、雇用創出を促進しています。 - UNFPA(国連人口基金)ヨルダン川西岸地区とガザの数カ所の産科病棟に機器と物品を供給しています。
- WFP(国連世界食糧計画)
1991年からパレスチナ占領地に食糧援助を実施しています。 - UNICEF(国連児童基金;ユニセフ)
パレスチナ占領地において安全で信頼できる水の供給に取り組んでいます。 - UNDP(国連開発計画)
ガザの漁業を支援しています
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二国間解決策の模索
「パレスチナの人々は、独立の存続可能なパレスチナ国家を設立し、イスラエルと平和かつ安全に共存する権利を有しています。同様に、アラブ和平イニシアチブが提案しているように、イスラエルにも確固として国際的に認められた国境内で平和に存続し、地域に完全に融合する法的権利があるのは当然です。エルサレムが二つの国家の首都となるべき道が見出され、そして聖地としてすべての人に受け入れられるしくみが作られなくてはなりません」
潘基文(パン・ギムン)
国連事務総長
2011年1月21日
2002年4月、EU、米国、ロシア、および国連で構成される中東カルテットは、新たな和平案として、恒久的な二国間解決策となる「ロードマップ」を提示しました。しかし、継続的な和平追求の枠組みである国連決議とロードマップは未だに実現されていません。
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【1947年】 国連総会が決議181(Ⅱ)、いわゆるパレスチナ分割決議案を採択した。同案では独立のアラブ国家とユダヤ国家の建国、そしてエルサレムについては特別な国際的地位を認めるとしている。
【1967年および1973年】 二度の戦争の後、安全保障理事会(安保理)は決議242 (1967)および338 (1973)により、公正かつ恒久的な平和のための原則を定め、その目標を達成するための交渉を呼びかけた。
【1967年】 1967年の戦争直後から、国際法の取り決めに反し、イスラエルによるパレスチナ占領地への入植が始まった。安保理がイスラエルに入植活動の停止と入植地からの撤退を求めたにも関わらず、今日に至るまで東エルサレムを含むパレスチナ領土における入植地の建設は続いている。
【1974年】 パレスチナ解放機構(PLO)がパレスチナの人々の代表として国連総会で認められ、オブザーバーの地位を獲得した。
【1975年】 国連総会はパレスチナ人民の固有の権利行使に関する委員会(パレスチナ委員会)を制定し、パレスチナの人々が不可譲の権利を行使できるための実施計画を勧告した。
【1987年】 イスラエル占領に対する最初のパレスチナの人々による蜂起が始まった。
【1993年】 ノルウェーのオスロにおける秘密会談の後、イスラエルとPLOは相互承認書を取り交わした。ワシントンDCのホワイトハウスでの式典において、双方が暫定自治政府原則宣言に署名し、和平プロセスが開始された。
【1994年】 ヤセル・アラファトPLO議長がパレスチナ占領地に戻り、ガザ地区およびヨルダン川西岸地区にパレスチナ暫定自治政府を設立した。
【1995年】 イスラエル・パレスチナ暫定合意(オスロ合意-Ⅱ)が締結され、イスラエルも民政の解体、さらにヨルダン川西岸地区をイスラエル・パレスチナそれぞれの責任の度合によってA、B、Cという地区に分けることが決定した。
【1996年】 ヨルダン川西岸地区とガザ地区で行われた第1回総選挙において、ヤセル・アラファト議長がパレスチナ暫定自治政府長官に選出された。
【2002年】 ベイルートのアラブ連盟サミットにおいてアラブ和平イニシアチブが発表された。
EU、米国、ロシア、および国連で成るいわゆる中東カルテットは、イスラエル・パレスチナ紛争の恒久的な二国間解決策に向けた「ロードマップ」を発表した。
【2002年】 イスラエルは東エルサレム占領地を含むヨルダン川西岸の周辺と内側に分離壁の建設を開始した。
【2003年】 安保理決議1515 (2003)によりロードマップが承認され、イスラエルとパレスチナ暫定自治政府がロードマップの実施を確約した。
【2004年】 国際司法裁判所は2004年7月の勧告において、パレスチナ占領地の分離壁とそれに関連した制度は国際法の違反であり、イスラエルはこれを撤去する義務があるとした。
【2005年】 イスラエルはガザ地区からの撤退を完了した。
【2007年】 アナポリス会議(米国メリーランド州)において、イスラエルのエフード・オルメルト首相、およびパレスチナ暫定自治政府のマフムード・アッバース大統領は「誠実な二国間交渉を直ちに開始」し、「2008年末までに合意に達するよう全力を尽くす」との合意を発表した。
【2008年】 イスラエルは2008年12月27日から2009年1月18日にかけ、ロケット弾攻撃に対してガザで「キャスト・レッド(軍事)作戦」を展開した。
元国連戦争犯罪検察官リチャード・ゴールドストーン判事を団長とする4名の調査団は、イスラエル軍およびパレスチナ武装勢力の双方ともが、ガザ紛争において重大な人権侵害と国際法違反を侵していると報告した。
【2010年】 米国のバラク・オバマ大統領は国連総会における演説の中で、二国間解決を目指す当事者を支援することを再度確約した。
【2011年】 マフムード・アッバース大統領がパレスチナの国連加盟を申請した。