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年次報告99

1999年09月01日

人道的挑戦への対応:予防の文化を目指して

コフィー・アナン国連事務総長
1999年9月
(本文は、今年の事務総長年次報告の序文としても発表された)

緒言

 戦争と自然災害の恐怖に直面し、国連はこれまで長い間、予防が治療に優ること、すなわち、私達が表面的現象だけでなく、その根本原因にも対処しなければならないことを主張してきた。しかし、期待に見合うような効果的な行動はまだ取られていない。その結果、今日の国際社会は、未曾有の人道的挑戦に直面している。
 1998年は、気象関連の自然災害という点では最悪の年となった。洪水や暴風雨により、世界中で数万の人々が死亡したほか、さらに数百万の人々が避難を余儀なくされた。地震による犠牲者を含めると、昨年の自然災害による死者は約5万人程度に及ぶ。その一方で、戦争とその犠牲者の減少に向けた世界の段階的な、しかし希望に満ちた歩みは停止したかのように見られる。アンゴラ、ギニアビサウ、カシミールおよびコソボ、ならびに、エリトリア・エチオピア間において武力紛争が勃発あるいは再発し、また、コンゴ民主共和国をはじめ、長年続いている戦争は、世界のメディアの注目をほとんど浴びないまま、泥沼化している。さらに、今やもっとも頻発する武力紛争となった内戦は、国家間の紛争よりも一般市民の犠牲者が多いことを特徴としているほか、戦闘員が一般市民を戦略的な攻撃目標とするケースも増えており、一般市民に対する戦争の影響は悪化している。こうした野蛮な人道的規範の逸脱は、最近その締結50周年を迎えた戦争規則に関するジュネーブ条約の違反とともに、人道援助活動員の取扱いにも及んでおり、これらの人々は紛争地帯の犠牲者へのアクセスを拒否されたり、自らが攻撃対象とされたりすることがあまりにも多くなっている。
 武力紛争の再燃と、自然災害の人的・金銭的コストの急増に直面し、私達は2つの課題への対処を迫られている。私達は犠牲者に対する救援の能力を強化しながらも、まず先に緊急事態の発生を防止する一層効果的な戦略を考案しなければならないのである。本報告においては、予防戦略の改善と費用効果向上の問題が中心テーマとなる。

挑戦の規模

 1990年代に世界で発生した大規模な自然災害の数は、1960年代に比べて3倍に増えているが、その一方で、国際赤十字・赤新月社連盟によれば、緊急援助資金は過去5年間だけで40%も減少している。
 カリブ海地域では1998年、ジョージとミッチの2つのハリケーンにより、1万3,000人以上が死亡し、ミッチは過去200年間で大西洋地域に最大の被害をもたらしたハリケーンとなった。6月のインドでのサイクロン被害は、大きく報道されなかったものの、ミッチに匹敵する被害をもたらし、死者は1万人に及んだものと推定されている。
 バングラデシュ、インド、ネパールおよび東アジアの広い範囲では大洪水が発生し、数千人が死亡した。バングラデシュでは、国土の3分の2が数ヵ月にわたって浸水し、数百万の人々が家を失った。中国の揚子江大氾濫による死者は3,000人以上、避難民は数百万人に上り、被害総額は300億ドルという驚異的な額に及んだものと見られる。ブラジル、インドネシアおよびシベリアでは、火災によって数万平方キロメートルの森林が焼失し、人間の健康と地域経済に壊滅的な打撃を与えた。アフガニスタンの地震による死者は9,000人を超えた。また、今年8月にトルコで発生した地震は、近年では史上希に見る被害をもたらした。
 暴力的紛争に関し、1998年に見られたもっとも懸念される動向は、戦争の急増である。全世界における戦争の件数と規模が1992年以来、縮小を続けていたこと(一部の研究者によれば3分の1以上減少)からすれば、これは特に憂慮すべきことと言える。
 人道的挑戦は、国際社会が人道的緊急事態に一貫した対応を行っていないという事実により、一層増大している。メディアの対応にも問題がある。例えば、コソボ危機の報道はあふれかえる一方で、より長期的で多くの犠牲者を出したエリトリア・エチオピア紛争やアンゴラでの残虐な内戦の再発は、ほとんどメディアの関心を呼ばなかった。その他、まったくと言っていいほど報道されていない戦争もある。こうした事情もあり、人道・治安援助の呼びかけへの対応も、同様に偏ったものとなっている。このような援助はメディアの報道、政治的要素あるいは地理的要素といった基準で配分されるべきでないというのが、私の強い考えである。人間的な必要性を唯一の判断基準とすべきである。
 私は特に、アフリカにおける戦争と自然災害の犠牲者のニーズに対する国際社会の貧弱な対応に危機感を抱いている。差し迫ったニーズがある場所で、マルティラテラリズムと人道的倫理という私達のもっとも基本的な原則を忠実に遂行できないとすれば、私達は少なくとも矛盾、最悪の場合には偽善のそしりを免れないだろう。

原因の把握:予防を成功させるための最初のステップ

 実際に役立つ予防戦略を考案するためには、まず、根本原因の明確な把握が必要である。災害については、答えは比較的単純であるが、戦争となると、話はより複雑になる。
 洪水であれ、干ばつであれ、暴風雨であれ、地震であれ、人間社会は常に、自然災害に直面する。しかし、今日の災害は人為的な場合もあり、人間の作為(あるいは不作為)は事実上、あらゆる災害を悪化させている。事実、「自然」災害という言葉はますます、時代遅れの誤った表現となっている。現実に、自然災害を不自然災害とでも呼ぶべきものに変えているのは、人間の行動である。
 貧困と人口圧力は、氾濫原、地震多発地帯、不安定な丘陵地など、危険な場所に住まざるを得ない人々を増加させ、自然災害のコストを高めている。全世界の災害犠牲者全体の90%以上が開発途上国に住んでいることは、偶然の事実ではない。
 持続不可能な開発慣行もまた、自然災害の影響の増幅の原因となっている。大規模な樹木伐採は、大雨を吸収する土壌の能力を低下させ、侵食と洪水の可能性を高める。湿地の破壊は、地面が大量の雨水を吸収する能力を低め、洪水の危険性を高める。1998年、このような環境破壊により土地を追われ、人口過密で災害の起こりやすい都市に流入した人々は、2,500万人に上るものと見られる。
 地球は常に、自然の寒暖の循環を経験してきた。しかし、1860年代に観測が開始されて以来、もっとも暑い14年は過去20年間に集中し、1998年は観測史上もっとも暑い年となった。依然として疑問視する向きもあるものの、現在の温暖化傾向とこれに関連した極端な気象状況は、その大半が人間の活動によって生じる炭素の排出の産物であるとの証拠が徐々に積み上がっている。
 当然のことながら、戦争の原因は自然現象に比べて説明が難しい。社会行動は、サイクロンや地震と同じような物理的法則に従ったものではない。人々はしばしば暴力により、そして時には不可解な形で、自分たちの歴史を作ってきた。このため、因果関係は複雑かつ多面的であり、個々の戦争によって根本的に異なることも多い。
 しかし、戦争の可能性を増大させる条件をいくつか明らかにすることは可能である。近年、貧困国は豊かな国に比べ、武力紛争に巻き込まれる可能性がはるかに高くなっている。しかし、貧困それ自体は決定的要因と見られていない。貧困国の大半は平和なことが多いのである。
 国連大学の最近の研究によれば、戦争に苦しむ国々では、概して、国内の社会集団間に不平等が存在する。重大な要因は貧困ではなく、このことにある。不平等の根拠は、民族性、宗教、国民的アイデンティティーあるいは経済階級に見出しうるが、こうした不平等は、政治的権力に対するアクセスの不平等に反映される傾向があり、これが平和的変革への道を閉ざしていることが多い。
 経済衰退もまた暴力的紛争と深い関係があり、経済が縮小するなかでは、経済成長時に比べて、政治は本来、より戦闘的となる。例えば、急激な経済改革と構造調整計画が、それを補完する社会政策もなしに押しつけられた場合、その影響によって政治的安定を損なわれる可能性がある。より一般的には、弱い政府(いわゆる破綻国家はもちろんのこと)が、暴動の勃発と拡大を止める能力自体を欠いていることが多い。
 「一触即発」の状態から戦争へのシフトは、不平の原因を意図的に動員することによって、また、民族的、宗教的あるいは国民的神話を押しつけたり、および、非人間的なイデオロギーを宣伝することによって引き起こされる。そして、これらはすべて、嫌悪感を煽るメディアによって広められることがあまりにも多い。いわゆるアイデンティティー政治の広範な高揚は、単一民族国家が全体の20%に満たないという現実の下、政治的扇動家たちがほとんど苦もなく、排他主義に具合のよい標的を発見し、支持を動員できることを意味する。1990年代における「民族浄化」の台頭は、アイデンティティー政治の悪用が恐ろしい人的コストをもたらしうることを如実に示している。
 しかし、武力紛争が民族間、国民間あるいはその他の敵対関係よりも、経済資源を支配しようとする闘争に関係しているケースもある。ダイヤモンド、薬物、木材採取権およびその他の価値ある商品に対する利権争いは今日、多くの内戦の火種となっている。一部の国では、国家が社会から資源を吸いあげ、親しい者や政治的支持者をひいきする能力が、争いによって獲得することができる戦利品となっている。また、反乱集団とその支持者が資源の大半の支配権を握り、それに伴う恩典の配分を行っている国もある。

予防のための戦略

 何よりもまず、予防をより真剣に考えることにより、戦争を減らし、戦争の結果として対処を迫られる災禍の軽減を図ることができる。予防には明らかな金銭面の動機付けが存在する。1960年代の自然災害による被害額は520億ドルであったが、1990年代の被害額はすでに4,790億ドルに達している。武力紛争のコストも同様に甚大である。「致死的紛争の防止に関するカーネギー委員会」の推計によれば、1990年代の7大戦争(コソボを除く)の国際社会に対するコストは1,990億ドルに上る。これは戦争当事国に対するコストを含まない額である。カーネギー委員会の研究者は、予防により大きな関心が払われていれば、こうしたコストは節減されていたはずである、と主張している。
 予防戦略の実効性を高めれば、数百億ドルの金額だけでなく、数十万人の命も救うことができよう。現在、介入と救援に費やされている資金を公平で持続可能な開発の推進に用いることができれば、戦争と災害のリスクはさらに軽減されるはずである。
 しかし、予防の文化の構築は容易でない。予防のコストは今すぐに支払わなければないのに対し、その利益は遠い将来にならないと得られない。また、その利益とは、戦争や災害が起こらないということであり、目に見えるものではない。したがって、予防政策に対する支持が、口先だけで行われ、具体的な形を取りにくいことは、驚くべきことではない。
 それだけではない。歴史の教訓によれば、戦争や自然災害を一つの原因だけで説明しようとするのは、あまりにも単純な発想であることに間違いない。すなわち、単純で包括的な解決策はありえないということである。複雑な原因に対処するためには、複雑で学際的な解決策が必要である。基本的に重要なのは、戦争であれ災害であれ、予防戦略の実施には、多種多様な幅広い機関および部局の間の協力が必要だということである。
 残念ながら、国際および国内の官僚たちは、予防の成功の前提条件である部門横断的協力の構築の妨げとなる制度的障壁を排除するに至っていない。例えば、各国の政府においても国際機関においても、安全保障政策を担当する部局は開発・統治政策についてほとんど知識を持たないことが多く、また逆に、後者を担当する者は、問題を安全保障の観点から捉えることがほとんどない。縦割り行政の障害を克服するためには、強力な指導力と、国際市民社会におけるパートナーを含めた「水平的」で学際的な政策ネットワーク構築への強いコミットメントが必要である。

防災

 防災は、災害の影響に対する社会の脆弱性を低めるとともに、その人為的な原因に対処することを目的とする。短期的な予防には、早期警戒が特に重要である。飢饉の警報を事前に発することで、救援活動はやりやすくなる。また、暴風雨や洪水の事前警報により、人々が危険な場所から無事に避難するのを助けることができる。広域衛星監視技術の改善は、防災に関する早期警戒データの収集に革命をもたらしている。
 国連機関は、早期警報においてますます重要な役割を果たしている。例えば、国連食糧農業機関(FAO)は、予想される飢饉について死活的に重要な警報を発しており、世界気象機関(WMO)は、熱帯低気圧の予報と干ばつの監視に支援を提供している。また、インターネットにより、衛星その他の警戒データがリアルタイムで容易に配給できるようになった。
 「国際防災の10年(IDNDR)」を通じて、リスク評価と損害見積りの方法について大きな改善が見られた。その一方で、災害多発国向けの緊急対応計画およびその他の準備措置を改善する努力も強化されている。このような革新の結果、各国政府は、不適切な土地利用と環境破壊によってもたらされる危険とコストに対する認識を高めている。
 また、必要な具体策に関しても合意が形成されつつある。危険な地域(脆弱な氾濫原、地滑りの起きやすい丘陵地および活断層地帯)における宅地・商業地開発については、規制を強化すべきである。建築規則により、建物の弾力性を強化するとともに、実際に災害が起きたときに不可欠なサービスを維持できるインフラを整備すべきである。もちろん、このような規則は実際に執行されなければ意味がない。特に、丘陵地の森林伐採と湿地の保護については、環境開発の健全化が必要である。また、災害多発地域への移住は住民の選択ではなく、貧困によってもたらされていることから、防災戦略を真に実効的なものとするには、これを全般的な開発政策に組み込むべきである。
 IDNDRの経験によれば、長期的予防政策の成功への鍵を握るのは、幅広い基盤を持つ部門横断的で学際的な協力である。炭素排出量を削減し、地球温暖化を減速させようとするキャンペーンは、このような協力によって達成できる成果を如実に物語っている。「気候変動に関する国連政府間パネル」で形成された専門家のコンセンサスを指針とした密接な協力により、科学界および各国・地方政府、ならびに、非政府組織(NGO)は、地球温暖化がもたらす脅威に対する国際社会の警戒心を高める上で、大きな成功を収めた。しかし、こうした懸念を実効的な行動に移すまでには、まだ多くの作業が残っている。
 この点についても、予防のもたらす利益を示す十分な証拠がある。昨年の中国での洪水は大きな被害をもたらしたものの、長年にわたって中国が実施した大々的な防災努力がなかったとしたら、死者の数ははるかに多くなっていたと見られる。1931年と1954年にも同じような規模の洪水が発生しており、その際の死者はそれぞれ14万人と3万3,000人を超えた。しかし、1998年の死者は3,000人に止まった。同様に、ホンジュラスのある村では、ハリケーン・ミッチによる死者が150人から200人に及んだが、以前から防災パイロット・プログラムが実施されていた近隣の村では、同じ影響を受けながら、死者は出なかった。
 しかし、今後の課題を過小評価すべきではない。一部の分野では、中心的問題に関する幅広い科学的コンセンサスが形成されておらず、多くの問題に回答が出されていない。しかし、問題は科学者の間での合意を達成することよりも、変革に反対する既得利益集団からの圧力に抗するよう、政府を説得することにあることが多い。
 資金は厄介な問題である。一部の政府、特に最貧開発途上国の政府は、大規模なリスク軽減・防災プログラムのための資金それ自体を欠いている。この点で、国際的な援助は不可欠である。また、準備・予防プログラムは将来の人道援助の必要性と復興のコストを大きく低減できることから、このような援助の費用効果はきわめて高い。
 教育は不可欠であるが、これは学校に止まらない。多くの国の政府と地方自治体は長い間、独自の適切なリスク軽減・緩和戦略を実施し、成功を収めてきた。この知識を共有し、これを科学界の専門技術およびNGOの実務経験と組み合わせることを奨励すべきである。
 これらすべての理由により、「国際防災の10年」中に実施された先駆的作業を継続することが不可欠である。今年の7月、IDNDRフォーラムは新千年紀のための戦略、「21世紀の世界を安全に:リスクと災害の軽減」を策定した。私はこれを全面的に支持するものである。

戦争の防止

 国連にとって、武力紛争の防止より高次の目標も、真摯なコミットメントも、大きな野心も存在しない。非暴力的紛争が戦争に発展することを防ぎ、過去の戦争の再発を防止するための主な短期・中期的な戦略は、予防外交(preventive diplomacy)、予防展開(preventive deployment)および予防軍縮(preventive disarmament)にある。「紛争後の平和建設」は、これらすべての要素と他のイニシアチブを包含する幅広いアプローチである。より長期的な予防戦略は、武力紛争の根本的原因への対処を行うものである。
 仲介、和解、交渉のいずれの形態を取るかに関わらず、予防外交は通常、非強制的で目立たないものであり、秘密遵守のアプローチを採用する。その静かな成果はほとんど知られることがない。事実、皮肉なことに、これが成功した場合は何も起こらない。守秘の必要性から、サクセス・ストーリーがまったく伝えられないということもある。国連のウ・タント元事務総長がかつて指摘したように、「完璧な調停作業とは、完了するまで成果が知られないか、あるいは、まったく知られることのないものである」。予防外交が一般の人々によって認識されないことが多いのも、驚くべきことではない。
 一部の紛争地点では、技能と信頼を備えた事務総長特別代表の存在だけで、緊張状態の悪化を防止できる場合があるが、より事前行動的な関与が必要となることもある。
 昨年の9月と10月には、私がアフガニスタンに派遣した特使の介入により、イラン・アフガニスタン間の緊張状態が戦争へと発展するのを防ぐことができた。この重要な任務はほとんど知られることがなかったが、最小のコストで大量の人命損失の可能性が回避されたのである。
 予防外交は、官職に就いている者だけの仕事ではない。私人と国内・国際市民社会団体もまた、紛争の防止、管理および解決における役割を活発化させている。いわゆる「市民外交」が、その後の正式合意への道を開くこともある。例えば、米国のジミー・カーター元大統領による1994年6月のピョンヤン訪問は、北朝鮮の核兵器開発をめぐる危機を回避するのを助け、同年10月の米朝間合意に直接つながるプロセスの端緒となった。中東和平プロセスにおいては、ノルウェーの小さな研究機関が、1993年のオスロ合意への道を切り開く上で、発端となる死活的な役割を演じている。
 暴力的衝突につながりうる不安定な状況に対処する上で、各国政府は市民社会団体とのパートナーシップを深め、緊張状態の打開と、しばしば根深い問題の創造的解決策の模索を図っている。例えば、フィジーでは、数カ国の地域国家の静かな外交による支援を受けたNGOと政府の協力により、新憲法が制定され、多くの観測筋が予測した暴力的紛争の現実的可能性を排除した。
 早期警戒もまた、予防戦略に不可欠な要素であり、私達はしばしば、アフリカ統一機構などの地域機関とのパートナーシップを通じ、これを提供する能力を着実に向上させている。しかし、ルワンダその他における国際社会による実効的介入の失敗は、警戒の欠如に起因するものではなかった。ルワンダの場合に欠如していたのは、ジェノサイドに対抗して武力を行使するという政治的意思であった。ここで決定的な要因となったのは、加盟国が死活的な利害を感じない場所での紛争で自らの軍隊を危険にさらすのを躊躇したこと、コストに関する懸念、および、(ソマリアでの苦い経験を受けた)介入の成功の見込みに対する疑念であった。
 予防外交を補完するものとして、予防展開と予防軍縮があげられる。平和維持活動と同じように、予防展開は、緊張地域あるいは分極化が進んだコミュニティーにおいて信頼を醸成し、紛争の封じ込めを助ける「細い停戦ライン」を提供するために行われる。現在までのところ、具体的な予防展開は、マケドニア旧ユーゴスラビア共和国への国連部隊派遣のみにとどまっている。予防展開はその他の紛争でも検討されており、依然として実例は少ないものの、潜在的には価値のある予防手段となっている。
 予防軍縮は、紛争多発地帯における小火器および軽兵器の削減を図るものである。エルサルバドル、モザンビークなどにおいては、戦闘員の動員解除に加えて、全体的な和平合意履行の一環として、その兵器の回収と破棄が行われた。過去の兵器を破壊することにより、将来の戦争におけるその利用を防ぐのである。
 予防軍縮の努力はまた、今日のほとんどの武力紛争において用いられている唯一の兵器である、小火器および軽兵器の密輸防止を対象とすることが多くなっている。これらの兵器は、戦争を引き起こすものではないが、その致死性と期間を劇的に拡大しうる。現在、国連内部、地域レベルで、またNGOの連合によって、こうした死の取引を取り締まるさまざまなイニシアチブが模索されているが、私はこれを強く支持するものである。
 今日、紛争後の平和建設として知られるようになった活動は、予防戦略における重大な、かつ、比較的最近の革新である。1990年代を通じ、国連は自らが交渉した包括的和平合意の履行に関し、より全体的なアプローチを開発した。ナミビアからグアテマラに至るまで、紛争後の平和建設では、機関間チームがNGOや地元の市民団体と協力し、緊急援助の提供、戦闘員の動員解除、地雷除去、選挙の運営、中立的な警察の構築、および、より長期的な開発努力への着手に助力している。この幅広い戦略は、人間の安全保障、良い統治、公平な開発および人権の尊重が相互依存的かつ相互補強的であるという前提に立っている。
 紛争後の平和建設が重要であることの大きな理由の一つとして、過去に比べて履行すべき和平合意の数が格段に増えていることがあげられる。実際のところ、1990年代には、それ以前の30年間に比べて3倍の数の合意に署名が行われている。中には、大々的な報道にもかかわらず失敗したものもあるが、ほとんどの合意は履行されている。
 紛争の根本原因に取り組む上で、長期的予防戦略は何よりもまず、破壊的紛争の勃発の防止を図るものである。こうした戦略は、紛争後の平和建設の場合と同様、予防への全体的アプローチを採用している。このアプローチは、最近の国連大学の研究にも反映されているが、それによれば、幅広い基盤を持つ政府こそが、暴力的な国内紛争の発生を妨ぐ最善の手段であることが判明している。幅広い基盤を築くためには、社会のあらゆる主要グループが、重要な国家機関である政府、行政、警察および軍隊に参加することが必要である。
 こうした結論は、民主主義国家同士が戦争に訴えることは希であり、国内での暴力の程度も非民主主義政体下に比べて低いという、いわゆる「民主主義平和論」と一致するものである。時間的、地理的に見て「民主主義」の意味が変わってきていることもあり、前者の命題については、学識関係者の間でさらに活発な議論がなされるべきものである。しかし、後者の命題については、さほど議論の余地はない。本質的に、民主主義は国内の紛争を管理する非暴力的形態だからである。
 長期的な予防には、本稿で詳しく論じるにはあまりにも多くの戦略が絡んでくる。ここでは、検討する価値がありながらも、これまで国際社会から比較的軽視されてきた3点に絞って述べることにする。
 第1に、国際社会は、紛争多発国において人間を中心とした安全を強化する政策を奨励するよう、一層の努力を行うべきである。公平で持続可能な開発は、安全に必要な条件である。また逆に、最低限の安全は、開発の前提条件となる。これらを個別に模索していたのでは意味がない。組織的な暴力とは無縁な安全の保障は、あらゆる人々にとって優先的な懸案事項である。また、治安部門における民主的な説明責任と透明性の確保は、援助国および国際金融機関からより大きな支援と奨励を受けるべきである。さらに、今日の武力紛争の圧倒的多数は、国家間ではなく国内で発生していることから、国防プログラムに費やされている多額の資金の一部を、人間(すなわち国民)の安全を強化する比較的低コストのイニシアチブへとシフトさせることが、安全保障上も賢明な策である場合が多い。
 第2に、開発政策が、例えば社会集団間の不平等を増幅させることにより、紛争のリスクを高めないようにするために、より大きな努力を行うべきである。この関連で、「紛争評価アセスメント」のアイデアをさらに検討すべきである。このような評価は、幅広い関係者との協議を通じ、特定の開発あるいは統治政策が、少なくとも治安を悪化させず、できればこれを改善させるようにすることを目的とする。これは、多くの国で大規模な開発および採取産業プロジェクトに伴って確立された環境アセスメントのプロセスをモデルとしている。
 第3に、経済のグローバル化は、新たな挑戦、そして新たな機会を意味している。過去10年間には、開発援助が減少を続ける一方で、開発途上地域への民間資本の流入は急増している。これにより、援助国および国際機関の開発途上国における影響力は相対的に低下し、多国籍企業のプレゼンスが増大している。民間セクターと治安は、多くの点で連関している。そのもっとも明らかな理由は、市場の繁栄と人間の安全は相伴うということである。しかし、多国籍企業には、単に市場の価値を承認するばかりでなく、それ以上のことができる。統治政策の改善に向けたその積極的な支援は、市場と人間の安全がともに栄える環境の醸成に貢献することができるのである。
 すでに明らかなとおり、ほとんどすべての紛争防止政策に共通するのは、私達国連が良い統治と呼ぶものを模索することの必要性である。具体的に、良い統治の要素となるのは、法の支配の促進、マイノリティーおよび反対集団に対する寛容、透明な政治過程、腐敗追放へのコミットメント、独立した司法、中立的な警察、厳格な文民統制を受ける軍隊、報道の自由および活力ある市民社会団体、ならびに、意義のある選挙などである。そして何よりも、良い統治とは、人権の尊重を意味するものである。
 しかし、私達は、予防は万能薬であると考えることはもとより、最善の資源を与えられた予防政策が平和を保証すると考えることさえも慎むべきである。予防戦略は、誠実さ、すなわち政府が国民全体の福祉を狭い集団の利益に優先させるであろうとする信念に基づいている。悲しいことに、私達は、現実にはこの信念がしばしば裏切られることを知っている。事実、予防に中心的な位置を占める良い統治の要件の多くは、一部の紛争多発国政府の生残り戦略に真っ向から対立しているのである。
 段階的変革のためのインセンティブを提供することは助けとなりうるが、これは国際社会が得意とするものでもなければ、頻繁に実施しているものでもない。欧州連合との協力緊密化の見通しは、いくつかの東欧・中欧諸国の寛容と制度改革を促進する強力な道具となったが、地球的レベルにおいて、こうしたパートナーはあったとしてもごくわずかというのが現状である。
 準備周到な予防戦略さえも失敗しうるという事実は、私達が戦争の災禍を完全には逃れられないことを意味する。したがって、当面の間、国際社会は手に負えなくなった紛争を封じ込め、管理し、究極的に解決するため、政治的(必要であれば軍事的)介入を行う態勢を整えておかなければならない。そのためには、現在よりも機能的な集団安全保障システムが必要となろう。とりわけ、悪質な人権侵害を防止するために介入する意思を強めることが肝心である。
 こうした事態に対応する意思をはっきりと示すことが、ひいては、抑止力を高め、予防という目標に資することになる。どれほど抑圧的な指導者でも、どこまで自分たちの勝手を通せるのか、憤激した外部の対応を引き起こさずに、どこまで人間の良心を引き裂けるのかということについて、慎重に判断するものである。国際社会が圧政者の破壊的な計算法を変えさせることができれば、それだけ多くの命を救えることになる。
 国際の安全は勿論、安全保障理事会の責任であり、危機と緊急事態への対応は常に、安保理の活動の重点となる。しかし、国連憲章第1条が想起させるように、安保理はまた、「平和に対する脅威の防止および除去のため有効な集団的措置」をとる責任も有している。それでも、安保理による紛争対策へのアプローチはこれまで、予防ではなく対応を主眼としてきた。
 近年、安保理が予防問題への取組みに対し、高い関心を示すようになった。安保理が紛争後の平和建設に関して集中討議を行なったこと、ならびに、アフリカにおける紛争の原因と恒久的平和および持続可能な開発の促進に関する私の報告書について安保理が対応し広範な紛争予防措置を承認したことは、このことを如実に示している。
 私はこのような動きを大いに歓迎するとともに、今年の6月、私が招集した第1回安保理検討会で始まった理事国との予防に関する対話を、来年も継続していく所存である。

結論

 今日、予防が危機への事後的対応に優り、しかも安くつくということに異議を差し挟む者はいない。それでも、私達の政治的・組織的文化と慣行は、予防よりも対応を念頭に置いている。昔からのことわざを借りれば、薬に使う金を見つけるのは難しいが、棺桶に使う金は簡単に見つかるのである。
 私が本報告書で概説したとおり、対応の文化から予防の文化への移行は容易ではないが、その任務が困難であるからといって、その必要性が減じるわけではない。戦争と自然災害は、世界中の個人と人間社会の安全にとって、大きな脅威となり続けている。これらの脅威を和らげることは、将来の世代に対する私達の厳粛な責務である。何をなすべきかは明らかである。今、必要なのは、これを実行に移す先見力と政治的意思なのである。