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略歴:第63回国連総会議長 ミゲル・デスコト・ブロックマン氏

プレスリリース 08-050-J 2008年09月11日

ミゲル・デスコト・ブロックマン氏は2008年6月4日、第63回国連総会議長に選出されました。

老練な政治家であり、コミュニティ指導者であり、また司祭でもあるデスコト氏は、1979年7月から1990年4月まで10年以上にわたり、ニカラグア共和国の外相を務めました。在任中には、1980年代に中米で生じた内戦に終止符を打つためのコンタドーラ、エスキプラス両和平プロセスで鍵を握る役割を果たしました。同じく外相在任中の1984年には、ニカラグアに対する軍事・準軍事行動支援のかどで米国を国際司法裁判所に提訴するという政府決定を先頭に立って推し進めました。同裁判所はその後、ニカラグア勝訴の判決を下しています。

デスコト氏は2007年以来、ダニエル・オルテガ・サアベドラ大統領の上級外務顧問として、閣僚級のポストに就いています。また、ニカラグアの国家水委員会の委員長も兼務し、中米最大の水源であるニカラグア湖保全の取り組みにおいても、主導的な役割を果たしています。同氏はさらに、サンディニスタ国家評議会、および、サンディニスタ民族解放戦線(FSLN)の最高意思決定機関である政治委員会のメンバーでもあります。

1960年代初頭、メリノール宣教会司祭に任命されたデスコト氏は、世界各地を巡り、ほとんどの国の首都を訪れたほか、立ち入ることが難しい遠隔地にまで足を伸ばし、貧しい人々の援助に多くの時間を費やしました。1963年には、労働者の権利擁護のための地域社会活動を通じ、サンティアゴ周辺のスラム地域(callampas)に暮らす恵まれない人々の地位を向上させるため、チリで国家人民行動研究所(INAP)を 創設しました。1972年12月の地震でニカラグアの首都マナグアに大きな被害が発生すると、デスコト氏は地震被災者に対する援助を結集。1973年に同氏が創設したニカラグア共同体総合開発基金(FUNDECI)は現在、ニカラグアで最も古く、かつ最も評価の高いNGOの一つとなっています。

デスコト氏は1970年、メリノール宣教会ニューヨーク本部の社会コミュニケーション部長に就任し、Orbis Booksを創設しました。Orbisはメリノール宣教会男子会の出版部門として、しばしば第三世界の視点から、精神世界や神学、時事問題に関する著作を刊行し、瞬く間に宗教書の一大出版者へと成長しました。デスコト氏はさらにニューヨーク在住中、ニカラグアのアナスタシオ・ソモサ独裁政権打倒を目指すFSLNの闘争を支持する進歩的、民主的有識者や専門家からなる「12人グループ(Grupo de los Doce)」の発起人にも名を連ねました。同氏はソモサ失脚後間もなく、ニカラグア外相に任命されました。

レフ・トルストイやマハトマ・ガンジー、マーティン・ルーサー・キング、ドロシー・デイをはじめとする人々の生涯や作品に深い感銘を受けたデスコト氏は、多国間主義と国際法順守の標榜者であるとともに、積極的非暴力、連帯および社会正義の諸原則を深く信奉しています。こうした原則は深い倫理観とともに、同氏の政治活動の基盤を形成しています。

デスコト氏は数多くの報賞を受けていますが、具体的には、カトリック大学「救い主の聖母」(UNICA)が同氏の平和への貢献を認めて授与した最高の名誉「ミゲル・オバンド・ブラボ枢機卿勲章」(2007年)、同氏の世界平和への貢献に対して授与された「トーマス・マートン賞」(1987年)、同氏の国際法への貢献を認めてFSLNが授与した最高の名誉「カルロス・フォンセカ・アマドル勲章」(1986年)、ソ連から授与された「国際レーニン平和賞」(1985/86年)、アルゼンチンの国際関係研究所から授与された「ラテンアメリカ・カリブ海平和・民主主義フリオ・コルタサル賞」(1985年)、および、ニカラグア国民を代表して同氏が受賞した「アルフォンソ・コミン平和賞」(初の受賞者、バルセロナ、スペイン、1984年)などがあげられます。デスコト氏は今年6月、第63回国連総会議長候補として、国連のラテンアメリカ・カリブ諸国グループ(GRULAC)から全会一致の支持表明を受けました。

ミゲル・デスコト氏は1933年、カリフォルニア州のロサンゼルス生まれ。幼少期をニカラグアで過ごした後、1947年に留学のため再び渡米。1953年にメリノール(ニューヨーク州)のカトリック神学校に入学し、1961年には司祭に任命されました。1962年には、コロンビア大学ジャーナリズム科大学院(Pulitzer Institute)から修士号を取得しています。