平和維持活動の歴史 ~ 黎明期から冷戦後の興隆期、そして現在
2013年12月27日
*文中のリンク先は ウェブサイト United Nations Peacekeeping および United Nations(英文)です。
国連平和維持活動(PKO)の歴史は、安全保障理事会が国連軍事監視員の中東への展開を認可した1948年に始まりました。
後に国連休戦監視機構(UNTSO)として知られることになるこのミッションの役割は、イスラエルと近隣アラブ諸国との間の休戦協定を監視することにありました。
それ以来、国連は68件のPKOを展開していますが、うち55件は1988年以降に設けられたものです。国連PKOにはこれまで、120カ国以上から数十万人の軍事要員のほか、数万人の国連警察官その他の文民要員も参加しています。
約120カ国から派遣された国連平和維持要員3,100人以上が、任務遂行中に命を失っています。
ここでは、平和維持の歴史を3つの段階に分けて説明します。
黎明期 国連PKOはどのようにスタートしたか
冷戦後の興隆期 国連PKOはどのようにその姿を変えてきたか
現在 国連PKOの現状はどうか
◆黎明期
国連PKOは、冷戦による対立が安全保障理事会の運営をしばしば麻痺させていた時代に生まれました。
平和維持は主として、現地での停戦の維持と情勢の安定化により、平和的手段で紛争の解決を図るための政治的取り組みに不可欠な支援を提供する活動に限られていました。
これらのミッションは非武装の軍事監視員と軽武装の兵員からなり、主として監視や報告、信頼醸成の役割を果たしていました。
国連が最初に展開したPKOは、国連休戦監視機構(UNTSO)と国連インド・パキスタン軍事監視団(UNMOGIP)の2つでした。現在も展開中のこれらミッションはいずれも、監視を目的とするPKOの模範例であり、定員もわずか数百人に限られていました。国連軍事監視員は非武装で派遣されました。
初の武装PKOとなったのは、1956年にスエズ危機への対応を目的に展開され、成功を収めた第1次国連緊急軍(UNEF I)でした。
1960年に発足した国連コンゴ活動(ONUC)は、初の大規模ミッションとして、最盛期には2万人近くの軍事要員を展開しました。ONUCは、紛争地域の安定化を図る際のリスクを実証する結果となりました。このミッションでは250人の国連要員が命を落としましたが、その中にはダグ・ハマーショルド国連事務総長も含まれていました。
1960年代から1970年代にかけ、国連はドミニカ共和国―ドミニカ国連事務総長代表使節団(DOMREP)、西ニューギニア(西イリアン)―国連西ニューギニア保安隊(UNSF)およびイエメン―国連イエメン監視団(UNYOM)に短期ミッションを派遣するとともに、キプロス―国連キプロス平和維持軍(UNFICYP)と中東―第2次国連緊急軍(UNEF II)、国連兵力引き離し監視軍(UNDOF)および国連レバノン暫定軍(UNIFIL)では、より長期的な活動の展開を開始しました。
1988年、国連平和維持要員にノーベル平和賞が授与されました。当時のノーベル委員会は、授賞理由を次のように説明しています。「平和維持軍はその努力を通じ、国連の基本的目的のひとつを実現するうえで、大きな貢献を果たしました。国連はその活動により、世界情勢においてさらに中心的な役割を演じ、より大きな信頼を得られるようになったのです」
◆冷戦後の興隆期
冷戦の終結により、国連PKOの戦略的背景は一変しました。
国連はそのフィールド活動を、軍事要員による全般的な監視任務を主とする「従来型」のミッションから、複雑な「多次元型」活動へとシフトさせました。こうした多次元型ミッションの目的は、包括的和平協定の履行を確保し、持続可能な平和に向けた基盤の整備を支援することにあります。
時代が進むとともに、紛争の性質も変化しました。当初、国家間の紛争に対応する手段として発展した国連PKOは、国内の紛争や内戦への対処に用いられるようになりました。
国連平和維持要員は、持続可能なガバナンス機構整備の援助から人権状況の監視、治安部門の改革、さらには元戦闘員の武装解除、動員解除、社会復帰に至るまで、幅広い複合的な任務の遂行を求められることが多くなったのです。
ほとんどのPKOが兵員を主力とすることに変わりはありませんでしたが、平和維持は下記のように多様な顔を持つようになりました。
- 行政官
- エコノミスト
- 警察官
- 法律専門家
- 地雷除去要員
- 選挙監視員
- 人権モニター
- 民生・ガバナンス専門家
- 人道援助要員
- 広報専門家
1989~1994年:件数の大幅な増大
冷戦の終結を受け、PKOの件数は急激に増大しました。新たなコンセンサスと共通の目的意識に基づき、安全保障理事会は1989年から1994年にかけて計20件の新規PKOを認可し、平和維持要員の総数も1万1,000人から7万5,000人へと増えました。
アンゴラ―第1次国連アンゴラ検証団(UNAVEM I)および第2次国連アンゴラ検証団(UNAVEM II)、カンボジア―国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)、エルサルバドル―国連エルサルバドル監視団(ONUSAL)、モザンビーク―国連モザンビーク活動(ONUMOZ)およびナミビア―国連ナミビア独立移行支援グループ(UNTAG)に展開されたPKOには、下記の目的がありました。
- 複合的な和平協定の履行を援助すること
- 治安を安定させること
- 軍と警察を再編すること
- 新政府の選出と民主的制度の整備を行うこと
1990年代半ば:再評価の時
初期のミッションが全般的に成功を収めたことで、国連PKOに対する期待は、その遂行能力を超えて高まりました。特に1990年代半ばには、安全保障理事会が十分に強力なマンデートの認可も、十分な資源の提供も行えないような状況が生じ、問題が表面化しました。
旧ユーゴスラビア―国連保護軍(UNPROFOR)、ルワンダ―国連ルワンダ支援団(UNAMIR)、ソマリア―第2次国連ソマリア活動(UNOSOM II)などでは、まだ銃声がやまず、維持すべき平和がない状況でミッションが派遣されました。
平和維持要員は、戦闘当事者が和平合意を守らなかったり、十分な資源も政治的支援も受けられなかったりする状況に直面するようになり、注目の的となっていたこれら3件のPKOに対する批判は高まりました。民間人の死傷者が増大し、戦闘が継続する中で、国連PKOの評判も悪化しました。
1990年代初頭から半ばにかけて挫折が続いたことで、安全保障理事会は新規平和維持ミッションの件数を抑制するとともに、このような失敗が二度と起きないようにするためにはどうすべきかを考える、内省のプロセスに入りました。
事務総長は、1994年にルワンダでジェノサイドが発生した際の国連の行動に関する独立の調査 [S/1999/1257] を委託するとともに、総会の要請に応じ、1993年から1995年にかけ、旧ユーゴスラビアのスレブレニツァで起きた事件に関する包括的評価 [A/54/549] を提出しました。また、国連のソマリアからの撤退に至る状況の慎重な検討も行われました [S/1995/231] 。
国連平和維持要員はその間も、中東、アジア、キプロスで長期的な活動を継続しました。
多くの国や地域で危機が続く中で、国連PKOが果たす不可欠な役割は、すぐにはっきりと再確認されることになりました。安全保障理事会は1990年代後半、下記の新規国連PKOの展開を認可しました。
- アンゴラ―第3次国連アンゴラ検証団(UNAVEM III)および国連アンゴラ監視団(MONUA)
- ボスニア・ヘルツェゴビナ―国連ボスニア・ヘルツェゴビナ・ミッション(UNMIBH)
- クロアチア―国連クロアチア信頼回復活動(UNCRO)、国連スラボニア、バラニャおよび西スレム暫定機構(UNTAES)ならびに国連文民警察支援団(UNPSG)
- マケドニア旧ユーゴスラビア共和国―国連予防展開軍(UNPREDEP)
- グアテマラ―国連グアテマラ検証団(MINUGUA)
- ハイチ―国連ハイチ支援団(UNSMIH)、国連ハイチ暫定ミッション(UNTMIH)および国連ハイチ文民警察ミッション(MIPONUH)
21世紀に向けて:新たな活動、新たな課題
国連は新世紀を迎えるにあたり、1990年代の平和維持の課題を洗い出し、改革を導入するための大々的な作業に取りかかりました。そのねらいは、私たちがフィールド活動を実効的に管理、維持できる能力を強化することにありました。
国連PKOの限界、そしてポテンシャルに対する理解が深まるにつれ、国連はさらに複合的な任務の遂行を求められるようになりました。その手始めとして、国連は1999年、旧ユーゴスラビアのコソボ―国連コソボ暫定行政ミッション(UNMIK)と、インドネシアからの独立途上にあった東ティモール―国連東ティモール暫定行政機構(UNTAET)で、行政機構の役割を果たしました。
安全保障理事会はその後数年の間に、多くのアフリカ諸国でも大規模な複合的PKOを展開しました。
- ブルンジ―国連ブルンジ活動(ONUB)
- チャドおよび中央アフリカ共和国―国連中央アフリカ・チャド・ミッション(MINURCAT)
- コートジボワール―国連コートジボワール活動(UNOCI)
- コンゴ民主共和国―国連コンゴ民主共和国ミッション(MONUC)および国連コンゴ民主共和国安定化ミッション(MONUSCO)
- エリトリア/エチオピア―国連エチオピア・エリトリア・ミッション(UNMEE)
- リベリア―国連リベリア・ミッション(UNMIL)
- シエラレオネ―国連シエラレオネ・ミッション(UNAMSIL)
- スーダン―南部の国連スーダン・ミッション(UNMIS)、ならびに、ダルフール国連・AU合同ミッション(UNAMID)、国連アビエイ暫定治安部隊(UNISFA)および国連南スーダン共和国ミッション(UNMISS)
- シリア―国連シリア監視団(UNSMIS)
平和維持要員はまた、ハイチ―国連ハイチ安定化ミッション(MINUSTAH)や、新たに独立した東ティモール―国連東ティモール統合ミッション(UNMIT)など、不安定な平和が崩れかかっていた国々でも、極めて重要な平和維持・平和構築活動を再開しました。
これらの活動の中には、国連中央アフリカ・チャド・ミッション(MINURCAT)、国連コンゴ民主共和国ミッション(MONUC)、国連ブルンジ活動(ONUB)、国連シエラレオネ・ミッション(UNAMSIL)、国連エチオピア・エリトリア・ミッション(UNMEE)、国連スーダン・ミッション(UNMIS)など、現在までにその任務を完了したものも多くあります。
21世紀最初の10年間、国連PKOはこれまでにも増して能力ぎりぎりの活動を迫られ、遠隔地の不透明な活動環境や、不安定な政治情勢の中での展開を求められることも多くなりました。
平和維持は、規模や費用において最大級かつ複合性を高めるミッションを成功させるための課題や、ある程度の安定化が実現した場合に、実行可能なミッション移行戦略を策定、遂行するための課題、不透明な将来と一連の要求事項に備えるための課題を含め、多種多様な課題を抱えることになったのです。
◆現在
2010年5月時点で、国連PKOは12万4,000人を超える兵員、警察官、文民要員を展開していました。
それ以来、国連PKOは整理統合の段階 に入ります。国連コンゴ共和国安定化ミッション(MONUSCO)の兵力削減と、2010年末の国連中央アフリカ・チャド・ミッション(MINURCAT)の撤退を受けて、要員の展開規模は10年ぶりに、わずかながら減少を始めました。
だからと言って、国連が直面する課題が少なくなっているわけではありません。PKOの兵力が減少する一方で、フィールド・ミッションに対する需要は高止まりし、平和維持は引き続き、国連の最も複雑な活動任務のひとつとなることが予想されるからです。
しかも、PKOが直面する政治的な複雑性や、文民面を含むその任務の範囲は、依然として極めて幅広いものになっています。警察をはじめ、一定の専門能力に対する需要が今後特に高まる兆候は多く見られます。
今日の多次元型PKOは、政治的プロセスの促進、民間人の保護、元戦闘員の武装解除、動員解除および社会復帰への援助のほか、選挙実施への支援、人権の保護と促進、法の支配の回復に向けた援助も続けていくことになるでしょう。
エルベ・ラドスー国連PKO担当事務次長は2013年10月28日の声明で、継続中の活動について概観し、現在の平和維持の戦略的背景について触れるとともに、今後の平和維持が直面する重要なニーズと新たな課題を明らかにしています。詳しくはこちらをご覧ください。
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