潘基文(パン・ギムン)事務総長の歴訪で振り返る激動の2011年 (その①)
2011年11月28日
2011年、世界は激動しました。アラブに押し寄せた民主化の波、東日本を襲った大震災、アフリカの角で発生した大飢饉、世界人口の70億人突破。潘基文(パン・ギムン)事務総長の歴訪を通して、この1年を振り返ります。(*本文中の肩書きは訪問当時のものです)
アラブ首長国連邦、オマーンからスタート
~そして中東に民主化の波
◇1月16日-20日 アラブ首長国連邦 、オマーン
分刻みのスケジュールで世界を歴訪する潘事務総長。各国のリーダーたちとの協議、あらゆる国際会議への出席、そして現地の人々と触れ合い、国際的な問題に対する理解を深めるため、世界を駆け巡ります。
2011年、潘事務総長の歴訪は、アラブ首長国連邦、そしてオマーンからスタート。アブダビでは持続可能なエネルギー、環境産業に関する世界未来エネルギー会議に出席しました。
気候変動の問題を「現代の最重要課題である」とする潘事務総長。持続可能な社会の構築のためには、再生可能でクリーンなエネルギーの存在が欠かせないものと考えます。
そしてこの頃、中東情勢は大きな動きを見せていました。チュニジアで2010年12月、一人の若者が焼身自殺をしたことをきっかけに、民主化を求める大規模なデモが広がり、民衆と治安部隊の衝突が続いていました。1月14日にはベン・アリ大統領が国外へ脱出し、23年間続いた独裁政権が崩壊しました。これをきっかけに、エジプト、リビア、シリア、イエメンと中東各地に民主化の波が押し寄せました。
スイス、エチオピア、英国からドイツへ
~エジプト・ムバラク大統領、30年の政権に終幕
◇1月25日-2月6日 スイス・ローザンヌ及びダボス、エチオピア、英国、ドイツ
スイス・ジュネーブでは、「女性と子どもの健康に関する情報と説明責任委員会」の初会合に参加しました。これは、2015年までに1,600万人の女性と子どもの命を救うことを目指し、2010年9月のMDGサミットで合意した取り組みで、400億ドルの資金が集まっています。
「世界経済フォーラム(通称ダボス会議)」においては、世界の政治、経済のリーダーが集い、グローバルな課題について論議しました。潘事務総長は、消費一辺倒の時代は終わり、「今こそ、持続可能な世界について革命を起こす時だ」、「すべての壁を崩して、グリーン経済を構築しよう」と述べました。気候変動、貧困、資源枯渇などの問題から抜け出し、持続可能な経済成長を続けるためには、今すぐにすべての生活の営みを考え直すことが必要だとし、一刻も早い行動を参加メンバーに訴えました。
そして、54の世界的な企業をメンバーに、「国連グローバル・コンパクトLEAD」という新たな取り組みを発表しました。持続可能な成長をはじめ、国連と共に地球規模の課題に取り組む世界的ネットワーク「国連グローバル・コンパクト」。これまで積極的に携わってきた企業がリーダーシップを発揮し、さらに多くの企業の参加を促し、ビジネスにおける持続可能性の実践に取り組もうというものです。
エチオピアの首都アディスアベバではアフリカ連合(AU)サミットに出席しました。会合を前に、コートジボワールに関する首脳会議が行われ、10年にもおよぶ大統領選をめぐる内戦、それに伴う人権侵害に憂慮を示しました。不当に大統領選勝利を宣言するバグボ政権を非難し、AUと結束して民衆を守っていくと述べました。
英国に渡り、オックスフォード大学では「人民の保護と21世紀の国連」をテーマに講演し、人民の保護という概念について、また、時代と共に変遷する国連のあり方について述べました。その中で、国連創設時から世界の、そして紛争の形態が変化し、国連の活動が「保護する責任」に至ったとしました。
「保護する責任」とは、「集団殺害、戦争犯罪、民族浄化および人道に対する罪からその国の人々を保護する責任を負う」という概念で、2005年の世界サミットで合意されました。国家が自国民を保護することに明らかに失敗している場合は、安全保障理事会を通じ、集団的行為をとることも辞さないというものです。これは、リビアにおいて実行に移されることとなりました。
その後訪れたドイツでは、ヴルフ大統領、ヴェスターヴェレ外相と会談し、北アフリカ情勢やコートジボアール、そして中東における和平プロセスについて協議しました。
この頃、北アフリカではチュニジアに続き、エジプトでも、民主化を要求するデモが拡大していました。各都市で、大統領退陣や経済改革を求める大規模デモが発生し、治安当局は500名以上を拘束、死者は300人にも達しました。フェイスブックを通じて数十万人もの人々が参加するデモが行われ、ムバラク大統領は2月11日に辞任。わずか1週間足らずで、30年にも及んだムバラク政権が崩壊に追い込まれました。
エクアドル、ペルーからエジプト、チュニジアへ
~歴史的な採択「保護する責任」
◇2月13日-16日 エクアドル、ペルー
2月28日-31日 米国・ワシントン
3月15日-23日 グアテマラ、スペイン、フランス、エジプト、チュニジア
潘事務総長にとって初となるエクアドル、ペルーの両国を訪問しました。エクアドルにおいては、さらなる民主化の促進を訴え、ペルーについては過去10年の民主化の成果を称えました。米国・ワシントンではオバマ大統領と、グアテマラでコロン大統領、スペインにてサパテロ首相と会談しました。
この頃、東日本を未曾有の大震災が襲いました。死者15,839人、行方不明者3,632人(外務省ウェブサイトより、11月22日現在)。津波のもたらした被害は想像を絶するものでした。さらには福島第一原発の事故が、日本のみならず世界に、原発のあり方について波紋を投じました。
一方、国連においてはリビアをめぐり大きな動きがありました。リビアでは民主化を求めるデモと治安部隊の衝突が続き、多数の死傷者が出ていました。緊急に開かれた国連安全保障理事会(安保理)の特別会合では、リビア大使が同国のカダフィ大佐を批判し、国連に「リビアを救ってください」と訴える異例の演説をしました。その後、カダフィ政権には厳しい制裁が課されましたが、市民に対する弾圧は一向に収まることはありませんでした。
ついに安保理は3月17日、リビア国民を守るために外国軍による占領以外の武力行使を認める歴史的な決議1973(2011)を採択しました。その2日後には、北大西洋条約機構(NATO)主導の多国籍軍による空爆が始まり、前述の「保護する責任」という新たな概念が実践されることとなりました。
フランスのパリでは、サルコジ仏大統領をはじめとするヨーロッパ、アラブ、アフリカの首脳が集まり、リビアに関するハイレベル会合が開催されました。事務総長は安保理決議の採択に触れ、「国際社会は、リビア政府による暴力行為から国民を守るため、責任を全うしてこの決議を実行する」と述べました。
その後、事務総長は歴史的な一歩を歩み始めたエジプト、チュニジアに入り、民主化への移行に向け国連としていかに協力できるかについて、自ら人々の声を聞き、新首相らと協議しました。
カイロでは、エルアラビー新外相およびシャラフ新首相と会談。会談後の記者会見では、「この歴史的な瞬間にカイロを訪れることができたことを光栄に思う」と述べ、非暴力の抵抗によって民主化への道を切り開いたエジプトの人々を称えました。そして今後も引き続き、国連として最大限に尽力することを表明しました。
チュニジアではカイド・エセブジ新首相らと会談、国連の支援を表明しました。ベン・アリ政権に抗議して焼身自殺を図り、政変の発端となった露天商ブアジジ氏の遺族とも面会し、一人の若者の勇気ある抗議がもたらしたアラブ世界の革命に敬意を表しました。
チュニジア市民に向けたスピーチでは、「劇的な変化がアラブ世界全体に訪れました。チュニジアの勇敢な市民である皆さんが、その道筋を開き、2011年革命という歴史的な出来事をもたらしたのです」と語り、チュニジアの人々を称えました。
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