「人権デー2013」第4回
「手話は言語」で、社会が変わる
鳥取県の挑戦
~平井伸治(ひらい しんじ)鳥取県知事~
東日本大震災を受けて、毎日の官房長官の記者会見に手話通訳が付くようになったことにお気付きでしょうか? 障害者の災害情報へのアクセシビリティーを高めるため急遽導入され、その後も定着しています。
日本の聴覚障害者・児の数はおよそ29万人(2013年版障害者白書)で、その中でも音声言語を取得する前に聴こえなくなった人たちは、手話を第一言語としている人がほとんどです。世界ろう連盟の統計によると、世界全体で世界人口のおよそ1パーセントにあたる7200万人のろう者がいます。
手話は、2006年に採択された国連の障害者権利条約の中で言語と位置づけられ、手話の普及が批准国に求められています。この潮流を受けて、日本でも障害者基本法が2011年に改正され、条文に「言語(手話を含む)」と手話に言及する文言が盛り込まれましたが、具体的な施策の整備はまだこれからというのが現状です。
その中で、全国初の画期的な条例を鳥取県が制定しました。その名も「鳥取県手話言語条例」。今年10月の県議会で全会一致で可決され、10月11日から施行されています。条例は手話を独自の言語とみなし、手話を普及させて使いやすい環境を整備する責務が県と市町村の側にあると明記しています。
鳥取県の平井伸治知事は、その背景について、次のように語ります。
「大学生の頃に、赤十字の国際ボランティアとして海外から訪日した聴覚障害者のスポーツ選手たちをサポートしました。英語が通じなくて困っていたところ、選手たちが手話でコミュニケーションしているのを見て、見様見真似で覚えたのが最初です。手話ってすごいなと思いました。知事として1期目の当選を果たした2008年、県の中長期計画を作るためのパブリック・ヒアリングで、ろうあ団体から『手話を言語として位置づけてほしい』という働きかけを受けたのです。個人的な体験もあり、中長期計画の中でそう位置づけたところ、全国の都道府県で初めてということで、随分評判になったようです。そして今年1月、全日本ろうあ連盟から『手話を言語とする条例を作って、突破口を示してほしい』という働きかけがあり、専門家らによる研究会を設けて条例の制定に向けて検討してきたという経緯があります」
手話は日本語を音声ではなく、手や指の動きや表情に変えて表現していると思われがちですが、手話は日本語とは異なる言語で、独自の語彙や文法体系を持っている言語です。鳥取県でも、この条例がすんなり制定された訳ではありませんでした。平井知事はこう振り返ります。
「議会ではいろいろな意見が出ました。そもそも言語とは何ぞや、という理念的な議論もしました。戸惑いを見せる人もいました。議会で議論を戦わせる中で、手話に対する理解が深まっていったと感じています。条例を作るという過程が、手話への認知を広げる機会になりましたし、手話を普及させようというモチベーションにもつながったと思います。条例ができて、今後は手話に馴染んでもらうために、企業や学校などの協力が必要になってきます。小中学校で手話を少しでも学べば、聴覚障害者がコミュニケートできるようになります。まさに『地域の手話革命』が必要でしょう。次の補正予算には、教える体制の拡充と教材の制作について予算を盛り込んでいます。鳥取県の取り組みが、国や他の自治体にも着実に広まっていると思っています」
こうした動きは少しずつではありますが、他の自治体にも広がりつつあります。2013年11月に東京都内で開かれた「手話言語条例および法に関する全国の動き」報告会では、満員の会場で、平井鳥取県知事に加え、北海道石狩市の田岡克介市長が取り組みを紹介しました。北海道石狩市は2014年の「手話基本条例」の施行を目指して準備を進めています。取り組みを一過性のものに終わらせないためにも、「宣言」ではなく「条例」にこだわって周囲を説得してきたと語るとともに、「単なる福祉施策にとどまらず、ろう者が自分らしく生きられる新たな社会の構築につなげたい」と意欲を示しました。
日本手話を「選択必須言語」に
~関西学院大学人間福祉学部 松岡克尚(まつおか かつひさ)教授~
手話を言語に、という動きは行政にとどまりません。兵庫県西宮市の関西学院大学人間福祉学部では、学部が開設された2008年から、日本手話を選択必須の言語科目として導入しています。つまり、必須の英語に加えて、フランス語・ドイツ語・中国語などと並んで、日本手話を選択できるのです。
大学としてはあまり例がない中での導入ですが、同学部のポリシーである「包括性」と「多様性」という理念と合わせて、障害者権利条約が手話を言語として位置づけたことも背景にあります。また、同学部の前身である社会学部社会福祉学科時代に専門科目として日本手話と「ろう文化」を取り上げたところ、受講生から好評であったことや、学生から手話の授業の導入に積極的な意見が多かったことなども、後押しとなりました。
「手話を学ぶことで、この日本社会が決して単一の生活習慣、文化、世界認識で染まっているようなものではなく、むしろそこには豊かな多様性があるのだということを知ってもらいたい」と強調するのは、同学部の松岡克尚教授です。
日本手話導入に当たって課題になったのは、教える側の体制づくりでした。理想としたのは、「ろう者」であり、かつ日本手話教授法に習熟している講師に加えて、日本手話を専門的に学んだ「聴者」とを組み合わせて、チーム体制でクラスを担当する、という形でした。そうした条件に見合う方々を見つけ出せるのかが差し当たっての課題となりましたが、幸い、周囲からの支援もあって手話通訳士と「ろう者」(ネイティブ・サイナー)講師と出会うことができ、彼・彼女らの熱意に支えられる形で授業を設ける運びとなったのです。
「このような条件を全て満たす講師陣を確保するという点こそが、他大学への広がりを考える上で大きなネックになるでしょう」と、松岡教授は指摘します。その上で、「大学レベルで日本手話教育を可能とする人材を養成していく、プラスの循環がいずれかは生まれれば」とも願っているとおっしゃいます。
学生への波及効果としては、松岡先生はこのように見ています。
「様々な場面で、学生たちは、自分たちの視野が広がったことを異口同音に語ってくれます。恐らく、友人や家庭の中でもそうした話題になったかもしれません。その結果として、さらに日本手話に対する正しい知識や『ろう者』『ろう文化』と対等に接し、それを敬う姿勢がいっそう広がっていくことになるかもしれません。日本手話クラスという「蒔かれた種」が社会の中で『開花』していったのであれば、本学部で多様性尊重の観点から日本手話を開講した意義があったと思いたいですね」
受講生たちはその後手話をどのように活用していくのでしょうか? クラスが2年間という本当に短い期間に限られるということもあって、どうしても限界はあります。音声言語であっても、留学でもしない限りはたった2年では習熟が難しいのと事情は全く同じです。しかし、それでもさらに手話の勉強を継続することを希望し、将来は手話通訳士を目指す学生も現れ、そこまでには至らないにしても、社会福祉士の実習などで「ろう重複施設」での実習を希望し、あるいは何らかの形で手話に関わる職業に就きたいと考える学生もでてきました。
実は松岡先生ご自身も聴覚障害を持っていらっしゃいます。研究者になる上でどのように乗り越えてこられたかについてもお聞きしました。
「ノートに記されている人物名、専門用語などを頼りにして、図書館に籠もって調べては学んでいきました(もちろんテスト前になって慌ててのことですが)。結果論ですが、人から教えてもらうより、自分で調べて学習するという『癖』が身に付いたのは、『研究者』という意味では良かったかなとは思っています。難聴だったこともあり、もともと『耳』よりも『目』を介して学ぶ傾向があったので、学生生活を通してそうした『学びのスタイル』がいっそう強化されてしまったともいえるかもしれません」
現在の大学の状況をご覧になって、松岡先生はこのように感じていらっしゃいます。
「現在は、本学ではノートテイクのサービスがありますし、他大学でも多くの場合は同様の制度が導入されていますので、その意味では私の学生時代とは隔世の感はあります。もちろん、ノートテイク=要約筆記には様々な限界がありますのでそれを万能視することは避けなければいけませんが、それでも聴覚障害のある学生への情報保障、授業参加、講義の理解に一定の成果を挙げていることも忘れてはならないと思います。日々、スキルアップを怠らない要約筆記者には本当に頭が下がる思いです。そして、こうした支援が当たり前のように提供される体制がどこの大学にも構築されているということが、これからの日本の大学全体に求められていることではないかと考えます。例えていえば、支援体制が当たり前すぎで『空気のように』なっているのが望ましいのではないでしょうか。加えて、多くの学生が要約筆記者としての関わりを持ってくれること、聴覚障害のある学生が要約筆記を受けている姿が日常的に他の学生、教職員の目にも触れることなどを通して、そうした支援が『当たり前の配慮』、『当然の支援』であることを広く認識してもらう機会になることを願っています」
大学で培われた「当たり前の意識」は、社会に出てから、社会の中での「当たり前」の実現に取り組む原動力になるでしょう。そうした原動力が、私たち一人一人が自分らしく生きられる、多様性に富んだ社会の礎になるのだと思います。