1945年 | 国際連合創設 |
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1947年 | 日本国際連合協会、発足 |
1954年 | 日本、国際司法裁判所(ICJ)規程の当事国となる |
「平和の鐘」、日本国連協会からニューヨーク国連本部に寄贈 | |
1956年 | 日本、国連加盟(注1) |
1957年 | 日本、最初の外交青書に当たる「昭和32年版わが外交の近況」において、外交活動の基調をなす三大原則のひとつとして、「国連中心主義」について言及 |
1958年 | 日本、国連安保理の非常任理事国に初選出(~1959年、以降11回選出)(注2) |
日本、国際司法裁判所(ICJ)の強制管轄権受諾宣言 | |
国連広報センター、東京に設置 | |
1960年 | 日本、国連経済社会理事会の理事国に初選出 (以来、1966-67、1971、1981年を除き、現在まで継続して理事国選出) |
1961年 | 田中耕太郎氏、国際司法裁判所(ICJ)の裁判官に就任(~1970年) |
1972年 | 赤谷源一氏、国連広報局担当事務次長に就任(~1978年) |
1974年 | 日本、JPO派遣制度に参加開始(注3) |
1975年 | 日本、国連大学(UNU)を東京に設立 |
1976年 | 小田滋氏、国際司法裁判所(ICJ)の裁判官に就任(~2003年2月) |
1979年 | 明石康氏、国連広報局長に就任(~1986年)(注4) |
日本、「経済的、社会的及び文化的権利に関する国際規約」、「市民的及び政治的権利に関する国際規約」批准 | |
1981年 | 日本、「難民の地位に関する条約」加入 |
1982年 | 日本、「難民の地位に関する議定書」加入 |
1983年 | 「模擬国連委員会(後の日本模擬国連)」設立。当時、上智大学の教授を務めていた、緒方貞子氏(元国連難民高等弁務官)のもとに発足 |
日本、「国連軍縮フェローシップ」参加者受け入れ開始(注5) | |
1985年 | 日本、「女子差別撤廃条約」批准 |
日本、財政危機に直面する国連の行財政の見直しを図るべく、国連内部に賢人委員会を設置する総会決議を提案し、採択された | |
1987年 | 中曽根康弘総理大臣(当時)が日本の総理大臣として初めて国連総会で一般討論演説 |
1988年 | 日本の提案による「紛争予防宣言」が国連総会で採択される |
1989年 | 国連アジア太平洋平和軍縮センター主催のもと、第1回国連軍縮会議が京都で開かれた(以降、毎年一回、日本各地で開催) |
ナミビアで、国連ナミビア独立移行支援グループ(UNTAG)に選挙監視要員として参加した、国連人権センターの久保田洋氏が事故死 | |
1991年 | 緒方貞子氏、国連難民高等弁務官(UNHCR)に就任(~2000年) |
紛争予防に関して、日本が草案作成を主導した「事実調査宣言」が国連総会で採択 | |
1992年 | 明石康氏が、国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)を率いる事務総長特別代表に就任(~1993年)(注4) |
日本で、「国連平和維持活動に対する協力に関する法律(国際平和協力法)」が制定される(注6) | |
東京・渋谷に国連大学本部ビル建設 | |
日本、カンボジアに展開する国連平和維持活動UNTACに自衛隊、停戦監視要員、文民警察官及び選挙要員等を派遣 | |
国連総会において、日本が提案した通常兵器移転登録制度が採択された | |
1993年 | カンボジアで、UNTACに文民警察官として参加した高田晴行警視、 同じく、国連ボランティア(UNV)の要員として参加した中田厚仁さんがそれぞれ武装集団に襲われ、死亡した |
1994年 | 日本、「児童の権利条約」批准 |
国連防災世界会議、横浜で開催 | |
河野洋平外相、国連総会の一般討論演説で、日本が安保理の常任理事国として責任を果たす用意があると述べて、常任理事国入りへの意欲を明確に表明 | |
日本の提案による「核兵器の究極的廃絶に向けた核軍縮決議案」が国連総会で採択。以降、毎年日本は核兵器廃絶決議案を提出している(注7) | |
1995年 | 日本、「国連要員及び関連要員の安全に関する条約」批准 |
日本、「化学兵器禁止条約」批准 | |
日本、国連総会に小型武器政府専門家パネルの設置を求める決議案を提案し、採択。以降、ほぼ毎年、小型武器決議案を提出して、問題解決の道筋を提示 | |
日本、「人種差別撤廃条約」に加入 | |
1996年 | 日本、「国連海洋法条約」批准 |
1997年 | 日本、「包括的核実験禁止条約」批准 |
気候変動枠組条約・第3回締約国会議、京都で開催。「京都議定書」採択 | |
1998年 | 法眼健作氏、国連広報担当事務次長に就任(~2001年) |
タジキスタンで、国連タジキスタン監視団(UNMOT)に政務官として参加した秋野豊氏が武装集団に襲われて死亡した | |
日本、「砂漠化防止条約」に批准 | |
日本国際連合学会、発足 | |
1999年 | 日本政府、国連に「人間の安全保障基金」設置 |
日本、「拷問禁止条約」に加入 | |
2000年 | 国連通常予算に対する日本の分担率、20.573%(注8) |
2001年 | 大島賢三氏、国連人道問題担当事務次長に就任(~2003年) |
「人間の安全保障委員会」、独立の委員会として発足 緒方貞子氏、共同議長を務める (2003年5月、最終報告書を事務総長へ提出)(注9) |
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日本、「ボランティア国際年(2001年)」の制定を主導 | |
2002年 | 日本、「京都議定書」批准 |
2003年 | 小和田恆氏、国際司法裁判所(ICJ)の裁判官に就任(~現在) (なお、2009-12年には、裁判所長を務めた) |
阿部信泰氏、国連軍縮担当事務次長に就任(~2006年) | |
グローバル・コンパクト・ネットワーク・ジャパン(GCNJ)、発足 | |
2004年 | 長谷川祐弘氏、東ティモール担当事務総長特別代表に就任(~2006年) |
日本、「子どもと武力紛争に関する「児童の権利条約」選択議定書」批准 | |
2005年 | 日本、「子どもの商業的性的搾取に関する「児童の権利条約」選択議定書」批准 |
神戸で、第2回国連防災世界会議が開催 | |
日本、「国連持続可能な開発のための教育の10年(2005年-2014年)」の制定を主導 | |
日本、国連安保理改革のためのG4案を提出 | |
日本、EUと共同で、北朝鮮人権状況決議案を国連総会に提出し、採択(注10) | |
平和構築委員会設立。以降、日本は継続して、メンバー国を務める | |
2006年 | 田中信明氏、国連軍縮問題担当事務次長に就任(~2007年) |
安保理で、日本が議長国として主導した、北朝鮮核実験の実施に関する制裁決議が全会一致で採択される | |
安保理で、日本は、作業方法およびドキュメンテーションに関する作業部会の議長を務め、改善措置を文書化した議長ノート(S/2006/507)」を作成し、安保理の透明性改善に貢献。(注11) | |
2007年 | 赤阪清隆氏、国連広報局長に就任(~2012年) |
ヴァイオリニストの五嶋みどり氏が国連ピース・メッセンジャーに任命される | |
日本、「国際刑事裁判所に関するローマ規程」加入 | |
2008年 | 日本、人権理事会に「ハンセン病患者・回復者およびその家族に対する差別撤廃のための決議」案を提出し、採択された。(注12) |
2009年 | 日本、「強制失踪条約」批准 |
2010年 | 安保理で、日本は議長国として、紛争後の平和構築に関する公開討論を開催。同会合で議長声明を発出 |
潘基文国連事務総長、広島の平和記念式典に初めて出席 | |
国連アカデミック・インパクト、日本でローンチ・イベント(注13) | |
2011年 | 日本、平和構築委員会の教訓作業部会の議長を務める (2012年、2013年、2014年、2015年にも) |
2012年 | 高須幸雄氏、国連管理担当事務次長に就任(~現在) |
2014年 | 日本、「障害者権利条約」批准 |
国際司法裁判所(ICJ)で、日本が初めて当事国となったオーストラリアとの争訟事件である「南極における捕鯨」訴訟の判決が下された (注14) |
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日本、「武器貿易条約(ATT)」批准 | |
2015年 | 第3回国連防災世界会議、仙台で開催。「仙台防災枠組」を採択 |
2016年 | 日本、11回目の安保理・非常任理事国(~2017年) |
山本忠通氏、アフガニスタン担当事務総長特別代表に就任 | |
日本は、安保理議長国として、アフリカにおける平和構築に関する公開討論を開催 | |
12月18日、日本の国連加盟60周年 |
(2016年9月制作)
(注)
- 日本が国連に加盟を申請したのは1952年6月だったが、安保理において、ソ連(当時)による拒否権が行使され、すぐには実現しなかった。その後、1956年10月の日ソ国交正常化を経て、同年12月12日に安保理は全会一致で加盟を勧告し、同月18日、国連総会が全会一致で承認した。日本は80番目の国連加盟国となり、国際社会に本格的に復帰した。
- 安保理の非常任理事国の任期は2年。日本はこれまで加盟国中最多の11回選出されている(-1958~1959年、1966~1967年、1971~1972年、1975~1976年、1981~1982年、1987~1988年、1992~1993年、1997~1998年、2005~2006年、2009~2010年、2016-2017)
- JPO派遣制度とは、国際機関における邦人職員増強の一環として、将来国際機関の正規職員(国際公務員)を目指す若手邦人を、日本政府の経費負担により、JPO(Junior Professional Officer)として原則2年間国際機関に派遣し、国際機関の正規職員となるために必要な知識や経験を積む機会を提供するもの。
- 明石康氏は1957年に国連入り。広報担当事務次長を務めたあと、軍縮担当事務次長(1987~91年)、人道問題担当事務次長(1996~1997)、また、事務総長特別代表として、カンボジア担当事務総長特別代表(1992~93)、旧ユーゴスラビア担当事務総長特別代表(1994~1995)など、重要ポストを歴任した。1997年末に退任。
- 国連軍縮フェローシップは、軍縮専門家を育成するために国連が若手外交官や国防関係者などを対象に実施しているプログラム。日本は1983年以来、毎年参加者を受け入れている。参加者は、日本の軍縮・不拡散政策について学び、広島・長崎両市を訪れる。
- その後、国際平和協力法のもと、日本はアンゴラ、カンボジア、モザンビーク、エルサルバドル、ゴラン高原、東ティモール、ハイチ、スーダン、南スーダンに展開する国連平和維持活動に参加してきた。2016年7月現在、日本は南スーダンに自衛隊を派遣している。なお、国際平和協力法の成立前、1980年代末から1991年にかけて、日本はアフガニスタン・パキスタン国境沿いや、イラク・クウェートの国境沿いに展開する国連平和維持活動に政務官を派遣したり、ナミビアやニカラグアに展開する国連平和維持活動に選挙監視員の派遣を行ったりした。
- 以降、日本はこのタイトルの下で核兵器廃絶決議案を1999年まで国連総会に提出し、採択された。その後、2000年~2004年に「核兵器の全面的廃絶への道程」決議案、2005年~2009年に「核兵器の全面的廃絶に向けた新たな決意」決議案、2010年~2014年に、「核兵器の全面的廃絶に向けた共同行動」決議案、そして2015年に「核兵器の全面的廃絶に向けた新たな決意の下での共同行動」決議案を提出し、採択されてきた。
- 日本の加盟当初の通常予算分担率は1.97%。その割合は増加し、1983年には10.32%と、初めて二桁を記録し、2000年には20.573%となった。その後、減少し、2016年-18年の分担率は9.680%となっている(米国に次ぐ第2位。)。
- 2000年のミレニアム・サミットで、日本政府のイニシアチブのもとに設置された独立の委員会。緒方貞子前国連難民高等弁務官とアマルティア・セン・ケンブリッジ大学トリニティーカレッジ学長を共同議長とし、共同議長を含め12名の世界的な有識者がメンバーを務めた。
- 2005年以降、北朝鮮人権状況決議案は毎年連続で、日本とEUが国連総会に共同提案している。また同様に、日本とEUは2008年以来、毎年連続で、国連人権理事会に対し、北朝鮮人権状況特別報告者のマンデートを延長する決議を共同で提出している。
- 日本は2010年にも、安保理の作業方法・ドキュメンテーション作業部会の議長を務め、その内容を更新した議長ノート(S/2010/507)を発行した。
- 2010年1月及び8月の人権理事会諮問委員会において、ハンセン病差別撤廃を目的とする原則及びガイドライン原則・ガイドライン案に対する各国、NGO等の意見を踏まえた議論が行われた結果、一部修正の上採択された。そして同年9月の人権理事会で、各国政府等に対し、原則・ガイドラインに十分配慮するよう求める決議が全会一致で採択された。
- 2009年、国連本部で、事務総長主導のもと、国連アカデミック・インパクトが正式に発足したのを受けて、2010年、日本でも、事務総長が訪日した際にローンチ・イベントが行われた。
- ICJは、日本が発給している第2期南極海鯨類捕獲調査に関する特別許可書は国際捕鯨取締条約第8条1の規定の範囲には収まらない旨判示した。同判決言渡し後、日本は、これに従う旨表明している。