中央・東アフリカ
「国連中央アフリカ地域事務所(United Nations Regional Office for Central Africa: UNOCA)」は、2011年3月、まず2年間の期限でガボンのリーブルビルに設置された。平和を確立し、潜在的紛争を予防する目的で加盟国や小地域機関を支援する。UNOCAはフランソワ・ロンセニ・ファル(ギニア)事務総長中央アフリカ担当特別代表代行によって率いられる。2015年に実施されたUNOCAの戦略的レビューとその後の事務総長の勧告に基づいて、地域事務所について以下のような目的が安全保障理事会によって承認された。すなわち、中央アフリカにおける政治的発展を監視すること、事務総長に代わって周旋およびその他の特別の任務を実施すること、小地域の国々にいてこれらの国の紛争防止と調停の能力を強化すること、小地域における国連の活動と平和と安全に関する地域および小地域のイニシアチブを支援すること、小地域において平和と安全にかかわる国連活動の一貫性と調整を強化すること、中央アフリカにおける重要な進展について事務総長および地域の国連機関に助言すること、である。2015年7月、安全保障理事会はUNOCAの任期を2018年8月31日まで延長した。
中央アフリカ共和国
中央アフリカの紛争は、軍隊の一部が1990年代半ばに一連の反乱を起こしたことによって発生した。1998年、国連は治安状態を改善するために「国連中央アフリカ共和国ミッション(United Nations Mission for the Central African Republic: MINURCA)」を設立した。これは2000年に「国連中央アフリカ共和国平和構築事務所(United Nations Peacebuilding Office in the Central African Republic: BONUCA)」によって受け継がれた。
2003年3月、反政府軍グループが選挙によって選ばれた大統領を追い出し、権力の座に就いた。安全保障理事会はクーデターを非難し、当局は早期選挙のための日程を含め、国民対話の計画を作成しなければならない、と強調した。国民対話のプロセスを通して議会選挙と大統領選挙が2005年に行われた。最終的な決選投票でクーデターを率いたフランソワ・ボジゼが大統領に選出された。新しく選ばれた国民議会は最初の通常会期を2006年半ばに開催した。
2008年、政府と三つの主要な反政府グループとの間で「グローバル和平合意」の署名が行われた。BONUCAはそれを奨励することで重要な役割を果たした。また2008年12月、政府、反政府グループのリーダー、亡命中の反政府政治家、市民社会、その他の利害関係者による「包括的政治対話」の開催にも力を貸した。
2009年、国連中央アフリカ統合平和構築事務所(United Nations Integrated Peace Building Office in the Central African Republic: BINUCA)がBONUCAの任務を引き継いだ。平和構築事務所は、安全保障理事会から与えられた任務のもとに、平和と国民和解を強固なものにし、法の支配を促進するために民主主義制度を強化し、国家再建と経済復興のために国際的な政治的支援と資源とを動員する。また、人権問題について国民の認識を高めた。
2012年後半、セレカ(Seleka)として知られる反政府勢力の連合体が、国土の大部分を占拠した。2013年1月、ガボンの首都リーブルビルで中央アフリカ諸国経済共同体の後援のもとに危機を解決するための合意が署名された。BINUCAは、反政府勢力間の会談に後方支援と技術支援を行った。しかしその後の数カ月の間に国内の治安情勢は悪化した。安全保障理事会は、2013年12月にフランス軍(サンガリス作戦)とアフリカ連合軍(MISCA)による介入を承認した。2014年4月、理事会は「国連中央アフリカ多面的統合安定化ミッション(United Nations Multidimensional Integrated Stabilization Mission: MINUSCA)(https://minusca.unmissions.org/)を設立した。BINUCAはこのミッションに組み込まれた。このミッションの支援の下に、2014年7月、国際中央アフリカ調停官としてデニス・サス・ングソ・コンゴ大統領が行った主催のもとに、停戦合意が署名された。停戦合意のもとに、すべての政治的ステークホルダーおよび武装グループの間に、平和的移行を通して暴力を終わらせ、国へ安定をもたらすためのプロセスが始められた。2014年9月、理事会は権限をMISCAからMINUSCAへと移譲した。
安定化ミッションは、中央アフリカ共和国当局が移行のための重要な出来事を実施できるように支援した。たとえば、2015年12月13日の憲法をめぐる住民投票で、投票者の93パーセントが新憲法を承認した。それに、12月30日に第1ラウンドの大統領選挙と議会選挙、2016年2月14日の第2ラウンドの大統領選挙、などである。3月30日、フォースタン・アーシャンジュ・トゥアデラが大統領に就任し、移行が正式に終わった。MINUSCAの任務は2017年11月15日まで延長された。目的は武装勢力の持続可能な削減に努める一方、文民を保護し、人道支援実施のための安全な環境の創出、人権の擁護のように、その中核となる作業を続けることであった。
ソマリア
1991年に政権が打倒されて内戦状態に突入して国土が敵対する部族間の支配地域に分割されて以来ソマリア国民は機能する国家のない状態の中で生活してきた。国連の禁輸に違反して武器や弾薬、爆発物が国境を越えて自由に持ち込まれた。事務総長主催の会談によって首都モガディシュで停戦が成立した。安全保障理事会は、停戦を監視する「国連ソマリア活動(UNOSOM I)」を1992年4月に設立した。UNOSOM Iはまた、国連要員、装備、備品の保護と安全を確保し、人道援助の輸送を護衛する。しかし、治安情勢が悪化したことから、理事会は12月、人道援助物資の安全な輸送を確保するために、「統一タスクフォース(UNITAF)」を設立する権限を加盟国に与えた。1993年3月、理事会はUNOSOM IIを設立すると同時に平和を回復することを目的とするUNITAFの活動を終了させた。しかし部族間の闘争は激化し、UNOSOM IIは1995年3月に撤退した。
1995年4月、事務総長は「国連ソマリア政治事務所(UN Political Office for Somalia: UNPOS)」を設置した。UNPOS は、事務総長がソマリア指導者、市民団体、関心ある国家や機関との接触を通して平和と和解を進められるように支援する。UNPOSはジブチ・イニシアチブを支援した。そのイニシアチブによって2000年に「暫定国民政府」が樹立されたが、その権限について南部のソマリア指導者や北東部の「プントランド」の地域政権、北西部の「ソマリランド」が異議を唱えた。
2002年、政府間開発機構(IGAD)主催の国民和解会議が開かれ、停戦と国民和解プロセスを規制する組織と原則に関して合意が生まれた。2004年、ソマリアの指導者たちは二つの暫定連邦機関(Transitional Federal Institutions: TFIs)すなわち「暫定連邦政府(TFG)」――国際的に認められたソマリアの連邦政府――と「暫定連邦議会(TFP)」の設立に合意した。TFG とTFPは、同じく2004年に採択された暫定連邦憲章に規定された。憲章は新憲法の制定に向けた5年の任期と国政選挙による代議政府の樹立までの移行であると説明している。2004年10月、「プントランド」大統領のアブドゥラヒ・ユスフ・アーメドがソマリア暫定連邦政府(TFG)の大統領に選出された。25人の大統領候補全員が彼を支持し、それぞれがその民兵の武装解除を行うと約束した。しかし、2006年5月までには「平和の回復と反テロリズムのための同盟(Alliance for the Restoration of Peace and Counter‒Terrorism)とシャリア法廷の重装備の民兵が互いにモガディシュで戦闘を続けていた。7月にイスラム法廷に忠実な勢力がバイドアへ向かって前進した。その年、イスラム法廷会議(ICU)は南部の多くを占拠した。暫定連邦政府は、エチオピア部隊とアフリカ連合の平和維持要員の助けを借りて、ICUを追い出した。その結果ICUは様々な勢力に分裂した。アル・シャバーブを含む過激派は再編成され、暫定連邦政府に対して反乱を再開し、またエチオピア軍の駐留に反対した。
2006年12月、安全保障理事会は、ソマリアで保護・訓練ミッションを設立する権限をIGAD とアフリカ連合加盟国に与えた。モガディシュでの激しい戦闘を避けて何十万人もの人々が逃げ出したことから、安全保障理事会は2007年2月、IGADミッションに代わり、より広範な活動を行う「アフリカ連合ソマリア・ミッション(AMISOM)」を設立する権限をアフリカ連合に与えた。AMISOMは、安全な環境を作るために必要なあらゆる措置を採る権限を与えられた。理事会はAMISOM の期限を繰り返し延長し、将来の国連の活動に備えて対応計画を進めることを承認した。
2008年までにアル・シャバーブはバイドアをはじめ、主要な地域を掌握した。2008年12月、アブドゥラヒ・ユスフ・アーメド大統領が辞任した。2009年1月、シャリフ・アフマドが大統領に選出され、オマル・アブディラシド・アリ・シルマルケが首相に選ばれた。同じ月、エチオピア部隊が撤退した。アフリカ連合の部隊に支援された暫定連邦政府は2009年2月に反撃に転じ、南部を奪い返した。
また、2009年1月、国連AMISOM 支援事務所(United Nations Support Office for AMISOM: UNSOA)がナイロビに設置され、アフリカ連合の作戦に後方支援と技術的支援を提供することになった。戦闘は2010年を通して続けられた。2010年後半まで、潘基文事務総長は、治安状況から判断して国連ミッションの展開は不可能だとの考えを支持した。こうしたことから、国連はTFGと反政府グループとの間の対話を奨励し、AMISOMを強化することに力を入れた。
紛争の結果、ソマリアの沿岸沖には海賊が急増した。安全保障理事会は海賊に対処するための決議を何回か採択し、2008年には、多国籍連合がアデン湾に海上安全パトロール海域を設定した。海賊行為は2011年に最高のレベルに達したが、2012年には国際社会と民間部門との共同の努力によって急速に減少した。
アル・シャバーブに対する大規模な武力攻勢は2011年2月に始まった。AMISOMの支援を受けた暫定連邦政府(TFG)軍はモガディシュの大部分を掌握した。8月半ばまでにTFGは首都の9割以上を掌握した。こうした事態の好転を受けてソマリア担当事務総長特別代表は2012年1月24日に事務所をモガディシュへ移転させることができた。
ソマリアの8年に及ぶ政治的移行は、2012年8月20日の新しい連邦議会の設立に伴って成功裏に終了した。議会は、ハッサン・シェイク・モハムドを大統領に選出した。UNPOSは、移行期を終わらせるために必要な周旋や政治的支援を行った。脅しや妨害の報告があったものの、ソマリアの過去20年に及ぶ危機の中でもっとも透明かつ国民を真に代表する議員選挙が実施された。また、これは国内で実施された最初の選挙でもあった。それにもかかわらず、モガディシュの治安は、改善はされたものの、予測できない状態であった。ソマリア国家治安部隊とAMISOMは同市に対する支配を維持したが、アル・シャバーブの攻撃はしばしば行われた。
2013年3月、安全保障理事会はAMISOMの期限を2014年2月28日まで延長する権限をAU加盟国に与えた。ミッションの任務は、アル・シャバーブや他の武装勢力が与える脅威を軽減し、アル・シャバーブから取り戻したすべての地域に国家権力を拡大すること、連邦政府と平和・和解プロセスにかかわる人々を保護すること、人道援助に必要な治安状況を作り出せるようにするなどで連邦政府を支援することである。理事会は、UNPOSがその任務を完了したことを受けて解散させ、それに代わって事務所をできるだけ早く新しい、拡大された政治ミッションに代えるべきだとの事務総長の評価に同意した。5月、安全保障理事会は、UNPOSの任務が6月2日に終了することを受けて、とりあえず、1年間の予定で「国連ソマリア支援ミッション(United Nations Assistance Mission in Somalia: UNSOM)(https://unsom.unmissions.org/)を設立することに決めた。任務は、連邦政府の和平・和解のプロセスを支援するための周旋を行うこと、連邦政府とAMISOMに対して戦略的な政策アドバイスを提供することである。それ以来UNSOMは何回となく延長され、もっとも最近では2016年3月であった。支援ミッションはモガディシュをはじめいくつかの地域に事務所を持ち、国際援助国の支援を調整できるように連邦政府を援助し、また人権と女性のエンパワーメント、子どもの保護、紛争に関連した性的暴力やジェエンダーに基づく暴力、司法の領域でその能力を強化できるように支援する。また、ソマリアにおける人権や国際人道法の乱用や侵害、子どもや女性の虐待について監視し、調査し、かつ防止し、理事会に報告する。他方、2015年11月、国連ソマリア支援事務所(United Nations Support Office in Somalia(United Nations Support Office in Somalia: UNSOS)(https://unsos.unmissions.org/)がUNSOA にとって代わった。UNSOS は、AMISOM との共同協力とのもとに、AMISOM, UNSOM, ソマリア国家軍やソマリア警察隊を支援する責任をもつ。
2016年10月、4年に及ぶ連邦議会と政府の任期終了を受けて、ソマリアは、国連や国際パートナーが支援する、新しい連邦議会と政府へ権力を移譲するための選挙プロセスに着手した。治安と人道状況が引き続き不安定で、アル・シャバーブはいまだに屈服していないものの、権限の平和的移行は、何十年にも及ぶ政治的混乱と対立の後にあって権限の平和的移行は、ソマリアにとって画期的出来事である。
南スーダン共和国
南スーダン共和国の誕生は和平合意とともに始まった6年に及ぶプロセスの頂点を示すものであった。1983年にスーダンで始まった内戦の段階では、スーダン政府と南部の主要な反政府運動である「スーダン人民解放運動・軍(Sudan People's Liberation Movement/Army: SPLM/A)」が資源や権力、国家における宗教の役割、自決の問題について争っていた。2005年1月に南北包括和平合意(Comprehensive Peace Agreement: CPA)が署名されるまでに、200万人以上の人々が死に、400万の人々が避難を余儀なくされた。およそ60万の人々が国外へ逃亡した。その和平合意のもとに、暫定機構が6年半の統治を行い、ついで、国連監視による住民投票を行って、南部スーダンの人々がスーダンとの統合もしくは分離を決めることになった。
2005年3月、安全保障理事会は、国連スーダン・ミッション(United Nations Mission in the Sudan: UNMIS)を設立した。任務は、CPAの実施を支援し、人道的援助や難民、国内避難民の任意の帰還を助け、かつその調整を図り、地雷除去について当事者を支援することであった。また、人権の擁護と促進を行い、文民を保護する国際的な活動を調整することも求められた。2005年9月、国民統一政府が樹立された。
2011年1月、南スーダンで、スーダンの一部として残るか、それとも独立するかについて住民投票が行われた。南スーダン住民投票委員会(SSRC)は住民投票を組織し、国連は住民投票の準備について技術的支援や後方支援を行った。圧倒的多数の投票者 ―― 98.8パーセント ―― が「独立」に賛成投票を投じた。アフリカ連合と政府間開発機構(IGAD)の監視団は、プロセスは自由公正であった、と宣言した。7月9日、CPAによる暫定期間が失効することを受けて、南スーダン共和国は独立国家として宣言された。サルバ・キール大統領は就任を宣誓し、南スーダンの暫定憲法に署名した。
同じく7月9日、UNMISの任務も終わった。安全保障理事会は「国連南スーダン共和国ミッション(United Nations Mission in the Republic of South Sudan: UNMISS)」を設立した。ミッションの任務は、政府が効果的かつ民主的に統治し、近隣諸国との良好な関係を確立するのを助ける。UNMISSは7,000人までの軍事要員、900人までの文民警察、その他適切な文民部門で構成される。2011年7月14日、総会は193番目の加盟国として南スーダンの国連加盟を承認した。
未解決の問題に関する南スーダンとスーダンとの交渉は、AUハイレベル履行パネル(AUHIP)の主導のもとに続けられた。2012年3月、国境地帯での暴力行為が実質的に増えて両国間の関係は悪化した。対立は4月10日さらに拡大し、SPLAは豊かな油田地帯ヘグリグを占拠、占領し、スーダンの石油生産は50パーセントの減産となった。国連も含め、国際的な圧力を受けて、南スーダンは4月20日、ヘグリグからSPLAの無条件撤退を発表した。
ヘグリグ危機を受けて、スーダンと南スーダンは平和的対話に戻った。国境付近での衝突は大幅に減少した。事務総長特使の緊密な協力のもとに、AUHIPの数か月に及ぶ調停の結果、両当事者は2012年9月27日、九つの合意文書に署名した。それは、債務に関する経済的取り決め、石油の採掘と既存の石油インフラの利用、相手国に住む自国民の地位、国境地帯の安全など、主要課題の多くを取り上げたものであった。
2013年12月15日、南スーダンの首都、ジュバで暴動が発生し、同国の他の地域にも拡大した。それによって国家的規模の深刻な政治的、安全保障の危機が生まれた。サルバ・キール大統領は、リエック・マシャール副大統領がクーデターを企んだと非難し、また民族的な動機もあり、両者の間に亀裂が生じた。スーダン人民解放運動/ 軍(Sudan People's Liberation Movement/Army(SPLM/A))は、副大統領と陰で連携するSPLM/A反対派と分裂した。UNMISS の推定によると、紛争当事者の戦闘では民族的に一般市民が標的とされ、何万人もの人々が殺された。一般市民は国連の施設内やそのコミュニティに逃げ込み、このことはユニークな課題をもたらしたばかりではなく、ミッションに対しても大きなストレスを与えることになった。
安全保障理事会は、UNMISS の部隊のレベルを引き上げ、要員を1万2500名、警察要員を1,323名に増加させた。これは、ミッション間の協力によって既存のミッションから要員を一時的に移動させるという形で行われた。2014年5月、理事会は、UNMISSの任務の優先度を文民の保護、人権監視、人道的援助の輸送支援に向けさせることにした。また、文民保護を支援する政府間開発機構(IGDA)タスクフォースと2014年1月23日の戦闘停止合意のもとに設置された監視・検証機関(MVM)をUNMISSの権限の下に展開させることを承認した。
2015年8月、20ヵ月に及ぶ紛争ののちに、「南スーダン共和国における衝突の解決に関する合意文書」(ARCSS)が当事者によって署名された。合意文書は、統治の移行期が規定されていた。その中で、権力を分担し、重要な安全対策を持つ暫定政府が設立される。スーダン人民解放軍の兵舎の割り当てや再統合の問題なども規定された。2016年3月、事務総長はニコラス・ヘイソン(南アフリカ)を「スーダンおよび南スーダン担当特別使節」に任命した。
SPLM/A反対派のリエック・マシャールがジュバへ帰り、2016年4月末の国民統一暫定政府(TGoNU)が設立されたにもかかわらず、合意文書は真剣に実施されることはなかった。全国的にSPLA政府派軍隊とSPLA反対派軍隊との間に一発触発の緊張状態が続いた。7月、SPLAとSPLA反対派との間に新たな衝突が発生し、治安、人道、人権の状況が極度に悪化し、何百人もの人々が死傷し、性的暴力が横行し、救援活動の従事者が攻撃され、二人の国連平和維持要員が殺された。リエック・マシャール第一副大統領はジュバから撤退し、その間に、7月25日、サルバ・キール大統領は、元SPLM/A反対派交渉責任者で鉱業相のタバン・デング・ガイを第一副大統領に任命した。
8月12日、安全保障理事会は、UNMISSがジュバで文民を保護できるように同ミッションの中に4000名からなる地域保護軍(RPF)を設けることを承認した。南スーダンにおいては、コミュニティ間の対立が増し、また政治的展望も予測できないことから、一般的な治安状況は極度に不安定であった。2016年12月、理事会はUNMISSの任期をさらに1年間延長した。部隊の要員は最大1万7000名とし、その中には4000人の保護軍も含まれる。警察要員は2,101名に増員された。包摂的かつ信頼しうる政治プロセスは危機を持続可能な解決へ導く唯一の手段であることには変わりがない。
スーダン
スーダンは1956年1月1日に独立して以来長年にわたって内戦に耐えてきた。スーダン政府と、スーダン南部における主な反政府運動である「スーダン人民解放運動/ 軍(SPLM/A)」との間の内戦は、2005年1月の「包括的和平合意(CPA)」の署名へとなり、2011年1月の住民投票によって南スーダン共和国は独立国家となった。スーダンのアビエイ地域とダルフール地域は未解決のままであった。
アビエイ
2010年末、南部スーダンの自決に関する住民投票に関連して、スーダンのアビエイ地域で緊張が高まった。こうした緊張は2011年1月初めには一連の暴力事件にまで発展し、北と南で軍の増強となった。南スーダンの一部となるかについてアビエイ地区でも同時に行われる予定であった住民投票は、境界線の画定や居住の問題のために延期された。2005年の包括的和平合意(CPA)の当事者は、2011年1月のカドグリ合意と3月のアビエイ合意の中で暫定的な治安の取り決めについて合意した。しかし、これらの合意は十分に実施されず、4月、5月には多くの事件が当事者や代理人の間に発生した。5月19日には南部の警察が管理するドクラでスーダン軍(SAF)合同統合部隊を輸送中のUNMISコンボイが攻撃を受けた。5月21日、SAFがアビエイの街を奪取したことに続き、スーダン政府はアビエイ行政機構を一方的に解散させた。暴力行為が拡大し、10万人以上の人々が南部へ逃れた。
2011年6月20日、スーダン政府と「スーダン人民解放運動(SPLM)」は、「アビエイ地区行政・治安暫定措置に関する合意(Agreement on Temporary Arrangements for the Administration and Security of the Abyei Area)」に署名した。合意は、SPLMが任命する行政官とスーダン政府が任命する次官が共同で率いるアビエイ地区行政府およびアビエイ合同監視委員会(Abyei Joint Oversight Committee:AJOC)の設立、新たな合同軍事監視委員会が監視する同地区からすべての武装勢力の撤退と完全な非軍事化、アビエイ警察の設置を規定している。国連は、地域の取り決めを支援し、治安を確保する暫定的な治安部隊を派遣するように求められた。
2011年6月27日、安全保障理事会は「国連アビエイ暫定治安部隊(UnitedNations Interim Security Force for Abyei: UNISFA)」(https://unisfa.unmissions.org/)を当初6カ月の予定で設立した。任務は、アビエイ地区からSAFとSPLAの移動を監視し、検証すること、関連するアビエイ機関に参加すること、地雷除去支援と技術的アドバイスを提供すること、人道的援助の輸送を可能にすること、アビエイ警察の能力を強化すること、警察との協力で石油インフラの安全を提供すること、であった。6月29日、当事者は「国境警備・合同政治治安メカニズムに関する合意(Agreement on Border Security and the Joint Political and Security Mechanism)」に署名した。これは、安全かつ非軍事化された国境地帯を設置することを決めたものである。同時に、当事者は国際国境監視検証ミッションを保護するようUNISFAに要請した。12月、安全保障理事会はUNISFAの任務を拡大し、国境の正常化プロセスを支援する任務を含めることにした。
スーダンおよび南スーダンの両国政府による合同暫定機関――アビエイ地区行政、アビエイ地区評議会、アビエイ地区警察――の設置に関しては進展が見られなかった。これは立法評議会の議長について合意が見られなかったためであった。2013年5月4日のアラブ系のミッセリア族民兵によるンゴク・ディンカ大首長の殺害は、重要な転機となった。AJOC会議やその他のメカニズムを利用して信頼をはぐくみ、橋渡しとなるためのこれまでの努力はすべて水泡に帰し、ンゴク・ディンカとミセリヤの両コミュニティの関係は完全に決裂してしまった。
5月以降、ンゴク・ディンカ族は、ミセリヤ族もしくはスーダンからの人々がアビエイもしくはそれ以上南の地域に行くことを阻止した。ンゴク・ディンカ共同体はいかなる共同の機関をも拒否し、2013年10月に一方的に住民投票を実施し、有権投票者の99.9パーセントはアビエイ地区が南スーダンの一部となることを選択したと発表した。南スーダン側の担当者はアビエイの共同統治に関するいかなる討議にも参加することを拒み続ける一方で、彼らの自決への権利を再確認した。
UNISFAは、統治や司法機関の支配の欠如によってさらに困難になった政治的環境にあってもその任務の実施を続けた。合意文書がない状態の中で、UNISFAは監視と早期警報アセスメントを実施し、現地にコミュニティ間の引き離し地帯を維持し、抑止を目的とした昼夜のパトロールおよび空中監視を実施するとともに、安全保障委員会を通して現地委員会およびスーダンと南スーダンの当局とが常時関与を続けるよう促進した。UNISFAは小型武器にかんしてはゼロ・トレランス政策を維持し、かつすべての個人の武装解除のための効果的なメカニズムの設立に双方のコミュニティとともに従事する。必要に応じてすべての違反行為に対して行動をとり、この地域における唯一の安全の提供者としての立場を強固にして行く。
2016年11月、安全保障理事会はUNISFAの期限を2017年5月31日まで延長した。AJOC会議をさらにもう一度開催するとの意向を双方が表明してきたにもかかわらず、会議はいまだ開かれていない。理事会はより以上の会議を開くよう訴えた。
ダルフール
政治的、経済的、社会的周辺化の結果としてダルフール紛争が発生した。スーダン軍の政府と同盟の民兵、それと一般市民に深刻な影響力を持つ反政府武装グループとの3年に及ぶ激しい闘い、そして一連の失敗に終わった調停プロセスを経て、政府とスーダン解放運動・軍(Sudan Liberation Movement/Army: SLA/A)は、2006年、ダルフール和平合意に署名した。権力の配分と富の共有、包括的停戦、治安の取り決めを取り上げていたにもかかわらず、他の主要な武装グループが拒否したため。合意は紛争を終わらせることはなかった。
2007年7月、安全保障理事会は「ダルフール国連・AU 合同ミッション」African Union‒United Nations Hybrid Operation in Darfur: UNAMID)(https://unamid.unmissions.org/)を設立した。これはアフリカ連合スーダン・ミッション(AMIS)にとって代わるもので、とりわけ、文民を保護し、人道支援の輸送を可能にし、かつ合意の実施を支援することを任務とした。UNAMIDは国連と他の地域機関が関与する最初の合同ミッションであった。
2011年、スーダン政府と武装勢力の傘である「自由・正義運動(Liberation and Justice Movement)」は「ダルフール和平に関するドーハ文書」に署名した。これは、カタール政府が、アフリカ連合と国連の支援の下に、便宜を図ってきた結果であった。合意文書は対立の根本的原因を取り除く一連の措置を規定し、権力の分配と富の共有、治安の取り決め、補償と国内避難民と難民の帰還、司法と和解、それに内部の対話のプロセスなどを進めることをのべている。その幅広い規定にもかかわらず、合意文書は戦闘を終わらせることはなかった。これは、政治的、資金に関連した課題に加え、ダルフールのいくつかの主要な武装グループが合意を拒否したからであった。
2014年、国連安全保障理事会とアフリカ連合の平和安全保障理事会はUNAMIDの戦略的レビューの結果を支持した。これはミッションの三つの戦略的優先度を規定したもので、スーダン政府と署名しなかった武装運動が、国内対話のプロセスを考慮に入れて行う交渉を支持し、文民を保護し、かつ人道支援を可能にすることなどである。アフリカ連合と国際連合はともに、政府と非署名の運動との間の交渉を通して政治的プロセスの包摂性を強化し、かつ、武装勢力が2015年10月に始まった国民対話のプロセスに参加できるような状況を作り出すように努めた。
こうした努力にもかかわらず、ダルフール危機の包摂的な政治的解決はいまだ達成されていない。2014年初め以来、政府の軍隊は対反政府活動軍事キャンペーンを実施し、一般市民の避難の原因となっているダルフールからの武装活動を取り除いた。2016年、これらの対反政府活動措置は、山岳地帯のジェベル・マラからスーダン解放軍/アブヅル・ワヒドを追い出すことに焦点を当てていた。全体としてダルフール紛争の結果として、コミュニティ間の暴力、犯罪グループや民兵による一般市民への攻撃事件は続いた。260万以上の人々は避難を余儀なくされ、それに加えて30万の難民が依然としてチャドに残っている。
UNAMIDは、ジェベル・マラ地域での戦闘によって何千もの人々が避難を求めている地区でのプレゼンスを強化した。また、政府やコミュニティの主要なステークホルダーにコミュニティ間暴力の拡大を阻止し、国連国別チーム(UNCT)との協力で、紛争の根本的原因を取り除く活動を進めている。2016年、アフリカ連合と国連安全保障理事会は、国内避難民の保護やますます激しくなるコミュニティ間暴力の脅威に対処することに焦点を合わせるというUNAMIDに対する勧告を承認した。
UNAMIDと人道支援機関はそれぞれの任務を果たす際に依然として相当の困難に直面している。武力攻撃に会い、アクセスを拒否され、移動の自由も確保できない。とくにジェベル・マラのような紛争地帯においてはそうである。また、スーダン当局からは活動の制限を受けている。
UNAMIDの期限は2017年6月30日まで延長された。国連安全保障理事会からの要請に加え、UNAMIDとUNCTは、委任された任務を後者に漸進的かつ段階的に移行させる計画を進めている。アフリカ連合、国連、スーダン政府は、ミッションの戦略的優先と二つの理事会が承認したそれ相当のベンチマークに基づいてミッションの出口戦略を発展させるための話し合いを進めている。