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大湖地域出典「国連の基礎知識」

2013年2月、11カ国がコンゴ民主共和国(DRC)及びその周辺地域のための「平和、安全保障および協力(PSC)枠組み」に署名した。これはDRC 東部および周辺地域で繰り返し行われてきた暴力の連鎖を断ち切るために必要な国家、地域、国際のレベルで行われるべき重要な行動をまとめたものである。それはまた、紛争の根本的原因に取り組むことも目的としている。ケニアやスーダンは2014年にPSC枠組みの署名国となった。大湖地域特別使節事務所(Office of the Special Envoy for the Great Lakes Region)(https://ungreatlakes.unmissions.org/)は枠組みの署名国や枠組みの実施を支援している。

ブルンジ

ブルンジでは10年(1993年―2003年)に及ぶ内戦の結果、25万から30万の人々が死に、何十万という人々が避難民となった。2003年半ばまでに、三つの主要勢力グループとの停戦合意が署名された。アフリカ連合(AU)は、アフリカ・ブルンジ・ミッション(AMIB)の展開を承認し、3,500人の部隊が編成された。2003年4月末までに、移行期の中ほど、ンダイゼイエ大統領(フツ族)とアルフォンス・マリー・カデゲ副大統領(ツチ族)は就任の宣誓を行った。しかしブルンジの首都ブジュンブラでは破壊的な攻撃が続き、国連は幹部以外のスタッフをブジュンブラから撤退させなければならなかった。南アフリカや地域内の他の国々のたゆまぬ努力によって2003年11月に停戦合意が生まれた。AMIBのプレゼンスがこの平和の実現に大きな役割を果たした。しかし、ミッションは資金と後方支援の欠如に苦しめられた。アフリカ連合は、AMIB に代わって国連がその任に就くよう要請した。2004年、安全保障理事会は、国連ブルンジ活動(ONUB)の展開を承認した。2,000人以上のAMIB部隊が国連軍として再編成された。2005年、内戦後の憲法に関する住民投票が成功裏に行われ、それに続いて6月には自治体選挙、そして8月には内戦終結後初の大統領選挙が行われた。9月には停戦合意が署名され、国連がその実施を支援した。

2007年1月、ONUBに代わって「国連ブルンジ統合事務所(BINUB)」が設置された。平和の強化プロセスや政府を支援するためであった。2011年1月、国連ブルンジ事務所(BNUB)がBINUBに取って代わった。2013年2月、安全保障理事会はBNUBの任期を2014年2月15日まで延長し、政府が、国内の当事者間の対話を進め、国家機関の強化をはかり、刑事免責と闘い、人権を擁護促進し、女性や若者の経済社会発展や紛争被災者の再統合を支援し、ブルンジ地域統合を強化できるように支援するようBNUBに要請した。ブルンジ政府の要請によって、BNUBは2014年12月31日に閉鎖された。2015年1月1日、国連ブルンジ選挙監視団(United Nations Electoral Observation Mission in Brundi(MENUB)が1年の期限で設置された。

4月、ピエール・ンクルンジザ大統領がもう一期務めるとの意向を発表したことから政治的不和や暴動が発生した。この危機は選挙に関係したものであったが、それはより深い政治的原因によるものであった。11月、事務総長は、紛争防止特別顧問(ブルンジを含む)としてジャマル・ブリンディ(イギリス)を任命し、地域の調停努力を支援して危機の平和的解決を図るチームをブルンジに展開した。事務総長は、将来の国連プレゼンスの形態についていくつかの選択肢を提出した。MENUBは2015年11月18日にその活動を終了し、12月31日に任務が終了した。2016年7月、安全保障理事会は、特別顧問室の権限のもとに、228名の警察官から構成される国連警察隊をブルンジに展開することを承認した。警察隊は当初1年の予定でブルンジの安全及び人権の状況を監視する。

コンゴ民主共和国

1994年のルワンダにおける集団殺害と新政府の樹立に続いて、集団殺害に加わった分子も含め、およそ120万のフツ族系ルワンダ人難民が、以前にザイールとして知られていたコンゴ民主共和国のキブ州へ逃げ込んだ。1996年、この地域で反乱が始まった。ローラン・デジレ・カビラを指導者とする軍隊が、ルワンダとウガンダの援助を受けて、1997年に首都キンシャサを制圧し、国名をコンゴ民主共和国(DRC)に改称した。1998年、カビラ政府に対する反乱がキブ地域で始まった。反政府運動の「コンゴ民主主義運動(Congolese Rally for Democracy: RCD)」によるものであった。反乱軍はルワンダとウガンダの支援を受け、国土の大部分を占拠した。アンゴラ、チャド、ナミビア、ジンバブエはカビラ大統領に軍事支援を約束したが、反政府勢力は東部地域の占拠を維持した。安全保障理事会は停戦と外国軍の撤退を求めた。1999年初め、DRCはアンゴラ、ナミビア、ルワンダ、ウガンダ、ジンバブエとともに、ルサカ停戦合意に署名した。同合意はコンゴ国民間の対話の開催も規定していた。RCDとコンゴ解放運動(Mouvement de Liberation du Congo)も8月にその合意に署名した。理事会は、合意の実施を助ける国連コンゴ民主共和国ミッション(United Nations Mission in the Democratic Republic of the Congo: MONUC)を設立した。

2001年1月、カビラ大統領が暗殺され、息子のジョセフ・カビラが新大統領に就任した。10月にはコンゴ人同士による対話がエチオピアのアディスアベバで始まった。2002年7月、コンゴ民主共和国からのルワンダ兵士の撤退に関する合意が、コンゴ民主共和国とルワンダの両国政府によって署名された。9月、同様の合意がコンゴ民主共和国とウガンダとの間にも結ばれた。同年末までに、紛争当事者は、国連と南アフリカの調停のもとに、暫定政府を樹立させることについて合意した。安全保障理事会は、MONUCを拡大して軍事要員を8,700人に増やした。同時にその展開を東部にまで拡大した。しかし、間もなく南キブ地域でも戦闘が再発し、大量の難民が発生した。しかし、2003年5月になってついに当事者がイツリ地域の停戦合意に署名することができた。停戦を受けて、安全保障理事会は、事態の安定化を図る目的で暫定緊急多国籍軍(Interim Emergency Multinational Force: IEMF)をイツイ州都ブニアに展開することを承認した。2003年6月、政府と主要な反政府勢力は、軍事と治安の取り決めに関する合意に署名し、ついで、国民の統一と移行のためにカビラ大統領が率いる連立政府が樹立された。理事会はMONUCの兵力を1万800人まで増強した。また、国連憲章第7章のもとに、理事会はイツリ地域と南北両キブ州で任務を果たすために必要なら武力の使用も可能とする権限をミッションに与えた。9月、IEMFはその治安に関する責任をMONUCへ引き渡した。

46年の歴史の中で初めて自由かつ公平な選挙が2006年7月に行われた。500議席の国民議会の選出が行われた。10月に行われた大統領決選投票では、ジョセフ・カビラが当選した。選挙の全プロセスは、国連がこれまで支援してきた選挙の中で一番複雑な選挙の一つであった。

国連はMONUCを通して積極的に関与して、国家軍と反政府勢力による北キブ州での対立を解決することを目指した。2010年7月、国内で新たな段階に達したことを反映して、MONUCは「国連コンゴ民主共和国安定化ミッション(United Nations Organization Stabilization Mission in the Democratic Republic of the Congo: MONUSCO)」となった。理事会は、MONUSCOを、文民・司法部門に加え、最大1万9815人の軍事要員、760人の軍事顧問、391人の警察要員、1,050人編成の警察班から構成することを決めた。MONUSCOの将来の構成は、南北両キブ州やオリエンターレ州における軍事作戦の終了、市民の保護に関する政府能力の改善、国内を通して国家権限の強化など、今後の状況に基づいて行うことにした。2012年6月、安全保障理事会は、ミッションが地方選挙の組織、実施に技術的支援や後方支援を行うことを決めた。

2012年11月20日、DRC国軍とMONUSCOを含む激しい戦闘が開始され、旧「人民防衛国民会議(CNDP)」―― のちに「3月23日運動(M23)」として知られる――は、ゴマを占拠したが、12月2日に同市から撤退した。DRC東部の情勢は依然として不安定であった。M23は北キブのかなりの地域に対して支配をさらに強化した。

2013年2月、DRCと周辺地域のために「平和、安全保障、協力枠組み」がエチオピアのアディスアベバで地域の11カ国代表、アフリカ連合、大湖地域国際会議、南部アフリカ開発共同体、国連事務総長によって署名された。3月、安全保障理事会はMONUSCOの期限を2014年3月1日まで延長し、平和維持活動を強化するために「介入部隊」を設立した。部隊は、ミッションの承認された部隊の上限を越えない範囲内で当初1年の期限で設立されることになった。

2015年および2016年、改革、対話、選挙プロセスを支持して、理事会はMONUSCOの政治的任務を強化し、今後の利害関係者間の対話を奨励し、平和的、信頼に足る、透明な選挙を開催できるような状況を作り出すために周旋の利用を強調した。また、期限を2017年3月31日まで延長し、文民の保護が引き続き最優先課題だと強調した。