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カンボジア出典「国連の基礎知識」

1950年代にフランスの植民地から解放されて以来、カンボジアは、1960年代、1970年代のベトナム戦争の副次的影響ばかりではなく、内戦による荒廃やポル・ポト派の集団殺害全体主義支配に苦しんだ。1975年から1979年までの「クメール・ルージュ」政権の下に、200万人近くの人々が殺害、病気もしくは飢餓のために死んだ。多くがカンボジアの悪名高い「キリング・フィールド」で死んでいった。1993年、国連カンボジア暫定統治機構(United Nations Transitional Authority inCambodia: UNTAC)の支援の下に、カンボジアは最初の民主的選挙を行った。それ以来、国連機関や計画は政府を助けて国民和解や開発の強化に努めた。2003年、国連とカンボジア政府との間に合意が成立した。それは、クメール・ルージュ時代に犯した犯罪を訴追する特別裁判所を設置し、運営することを国連が支援するというものであった。

2005年にカンボジア裁判所内の特別法廷(Extraordinary Chambersin the Courts of Cambodia: ECCC)(https://www.eccc.gov.kh/)が設置され、2007年7月に人道に対する罪に対して最初の起訴を発表した。何人かは暫定的拘留を求められた。2008年、クメール・ルージュの下に苦しんだカンボジア人が初めて弁護士を通じて裁判に参加した。

2012年2月、最高審裁判部はカイン・グエグ・イブに対して終身刑の判決を行った。イブはECCCで裁判を受けた最初の人で、2010年に有罪の判決を受けていた。終身刑は法律が決める最高の刑である。2010年、民主カンプチアの4人の最高幹部、イエン・サリ、イエン・シリト、キュー・サムファン、ヌオン・チアは人道に対する罪、チャム族や他のベトナムの民族の集団殺害、ジュネーブ条約の重大な違反、それに殺人、拷問、宗教的迫害など、1956年のカンボジア刑法の違反などの容疑でも起訴された。

イエン・シリトは公判に耐えられる状態にないとの2012年9月の第一審裁判部の確認のもとに仮拘禁から釈放され、司法観察のもとに置かれていたが、2015年8月に死去した。2013年3月14日、イエン・サリに対する訴訟は本人が同日に死亡したことによって終了した。

2014年8月、第一審裁判部は、ヌオン・チアおよびキュー・サムファンは1975年4月17日から1977年12月までにの期間に犯した人道に対する罪で有罪であるとして、終身刑の判決を行った。被告側は判決を控訴したが、最高審判部は2016年11月23日に判決内容のほとんどを支持し、それぞれの被告の終身刑は適切であるとの判断を下した。キュー・サムファンとヌオン・チアに対する第二の裁判は、追加の容疑で、証拠の提出とともに、依然進行中である。