インドとパキスタン
インドとパキスタンの関係は、カミールをめぐる何十年にも及ぶ紛争のため緊迫してきた。問題の発端は1940年代にまで遡る。当時、ジャム・カシミール州は藩王国の一つであったが、分割計画と1947年のインド独立法とによって、インドまたはパキスタンへの帰属を自由に決めることができるようになった。ジャム・カシミールの住民のほとんどはイスラム教徒であるが、藩王自身はヒンズー教であることから、インドへの帰属を決めた文書に署名した。
安全保障理事会は、パキスタンの支援と参加を得た部族民、その他がカシミールへ侵攻し、戦闘が続いているとの苦情をインドから受け、1948年に初めてこの問題を取り上げた。パキスタンはその申し立てを否定し、ジャム・カシミールのインド帰属は違法であると宣言した。1949年、国連インド・パキスタン軍事監視団(United Nations Military Observer Group in India and Pakistan: UNMOGIP)(https://unmogip.unmissions.org/)がインド・パキスタン間の停戦を監視し、同時に、理事会が1948年に設置した国連インド・パキスタン委員会(UNCIP)への軍事顧問を支援する。1971年末のインド・パキスタン間の戦闘とその年の12月17日の停戦合意以来、UNMOGIPの任務は、ジャム・カシミールの停戦ラインに沿って停戦を監視し、報告することである。国連はまた、両国間の調和のとれた関係を促進するよう求められている。
2003年、インド首相とパキスタン大統領は両国間の関係を改善する目的で一連の相互措置をとった。11月、パキスタンは、ジャム・カシミールの管理ライン(停戦ライン)にそって一方的な停戦を実施すると申し出た。インドはそれに積極的に応じた。ついには、こうした措置によって、2004年にインドのアタル・ビラリ・バジパイ首相とパキスタンのペルベズ・ムシャラフ大統領、ザハルラ・カーン・ジャマリ・パキスタン首相とによる首脳会談へと発展するまでになった。平和の強力な表示として、60年近くも引き裂かれてきた家族を再び結びつける機会として、停戦ラインを超える画期的なバスの運行が2005年に始まった。
しかし、2007年2月、デリー・ラホール間の「フレンドシップ・エクスプレス」に対する攻撃によって、67人が死亡、20人が負傷した。両国間の関係が試されることになった。事務総長と安全保障理事会は、テロリストによる爆撃を厳しく非難し、犯人の司法の裁きを訴えた。2008年11月、インドの金融都市、ムンバイで組織テロ攻撃が行われた。パキスタンに拠点をおくテロリストグループ、ラシュカレタイバ過激主義者による攻撃であった。攻撃は3日間続き、少なくとも173人が死亡し、300人以上が負傷した。インドの武装部隊の作戦によって攻撃者はタジマハール・ホテルで殺された。1人だけが捕らえられた。パキスタンは攻撃を非難したが、テロリストが行った残虐行為によって二つの隣接国の関係は再び悪化した。
若い分離独立派戦闘員が2016年にスリナガルでインド治安部隊によって殺害されたことから、停戦ラインに沿ってインドとパキスタンとの間にしばしば銃撃戦の応酬が見られたものの、停戦ラインに沿っての治安状況は概して静かであった。UNMOGIPは、国連はジャム・カシミールの人々や問題が未解決のままにあることを忘れてはいないという証のために、停戦順守を監視し、報告している。