コソボ
1989年、ユーゴスラビア連邦共和国はコソボの地方自治権を無効にした。コソボはユーゴスラビアの南部にある州で、セルビア人にとって歴史的に重要な地域であったが、住民の90パーセント以上が民族的にはアルバニア人であった。コソボのアルバニア人は反発し、自治を求めてセルビア国家機関や行政当局をボイコットした。緊張が高まり、1996年、武力による独立を求めてコソボ解放軍(KLA)が表面に出てきた。KLAは、セルビア人役人と彼らに協力するアルバニア人を対象に攻撃を開始し、セルビア当局は大量逮捕の形でそれに応えた。1998年3月、セルビア人警察が表面上はKLAメンバーを探すとの口実で、ドレニツァ地域で掃討作戦を実施したため、戦闘が始まった。安全保障理事会はコソボも含め、ユーゴスラビアに対する武器禁輸を決めたが、事態は悪化を続け、戦闘状態に突入した。
1999年、NATOは、ユーゴスラビアに警告を発し、かつセルビア人のコソボ攻撃を背景に、ユーゴスラビアに対する空爆を開始した。ユーゴスラビア軍はKLAに対して大攻撃を仕掛け、ユーゴスラビアはコソボからアルバニア系住民の大量追放を開始した。これによって未曾有のおよそ85万人の難民が流出することになった。UNHCRと他の人道機関は、アルバニアとマケドニア旧ユーゴスラビア共和国へ急行し、難民の支援にあたった。ユーゴスラビアは8カ国グループ(西欧の先進工業国7カ国とロシアで構成)提案の和平計画を受諾した。安全保障理事会は同計画を支持し、敵対行為を抑制し、KLAの非武装化を図り、難民の帰還を可能にする治安部隊を設置する権限を加盟国に与えた。同時に、理事会は、暫定的な国際文民行政機関を設置し、コソボの人々が実質的に自立と自治を享受できるようにするよう事務総長に要請した。ユーゴスラビア軍は撤退した。NATO は爆撃を停止し、5万人の多国籍「国際安全保障部隊 Kosovo Force(KFOR)」が治安確保のために到着した。
国連コソボ暫定行政ミッション(United Nations Interim Administration Mission in Kosovo: UNMIK)(https://unmik.unmissions.org/)が直ちに設立された。安全保障理事会は、すべての立法権、行政権、司法の運営を含め、コソボとコソボ住民を統治する権限をUNMIKに与えた。戦争中に逃れたおよそ85万人の難民のうち少なくとも84万1000人が帰還した。UNMIKの貢献によって、平常生活が取り戻された。KLAは1999年末までに全員武装解除され、市民社会へ社会復帰した。それに続く数ヵ月の間に、21万人の非アルバニア系コソボ住民はコソボからセルビアやモンテネグロへと移った。残りの非アルバニア系少数者は、KFORに守られた孤立した飛び地に住んだ。
2001年、旧ユーゴスラビア国際刑事裁判所は、「コソボのコソボ・アルバニア系住民に対する組織的攻撃」の際に人道に対する罪を犯したとしてスロボダン・ミロシェビッチ元ユーゴスラビア大統領とその他の4人を起訴した。ミロシェビッチは2006年に拘留中に自然死した。彼は、ボスニア・ヘルツェゴビナ、クロアチア、コソボでの集団殺害罪、人道に対する罪、戦争犯罪など、66件の訴因で訴えられていた。
同じく2001年、安全保障理事会は武器禁輸を解除した。11月、議会議員が選出され、議会は2002年に最初の大統領と首相を選出した。12月、UNMIKは、現地暫定機関への責任の委譲を完了した。しかし、治安、対外関係、少数者の権利の保護、エネルギーについては、コソボの最終地位が決まるまで、UNMIKが管理することになった。
2006年の4回にわたる当事者間の直接交渉、セルビア、コソボのトップによる最初のハイレベル会合、2007年に事務総長特使による最終地位計画の提出が続いたものの、コソボのアルバニア系政府とセルビアの意見は食い違ったままであった。2007年2月、特使は「譲歩提案」として最終的な地位計画を提出した。しかし、当事者は応じなかった。その後、特使はコソボに残された唯一の選択肢は独立であると報告した。独立にはセルビアが一貫して反対してきた。その年の後半、欧州連合、ロシア、アメリカの3者からなるトロイカがコソボの将来の地位についてさらに交渉を進めることに合意した。しかし、当事者は合意に達することはできなかった。
2008年、コソボ議会は独立宣言を採択した。2010年、国際司法裁判所は、宣言に関する勧告的意見を発表し、独立宣言は国際法に違反するものではないと述べた。同時に、EUとの緊密な調整のもとに、ベルグラードとプリシュティナ間の対話のプロセスに国連は貢献する用意があることを事務総長が再確認した。対話は2011年に始まり、2012年へと続いた。
2012年10月19日、セルビアのイビツァ・ダチッチ首相とコソボのハシム・サチ首相との最初のハイレベル会合が、欧州連合の主催のもとにブリュッセルで行われた。2013年3月22日現在、両首相は7回にわたって対話を行った。2013年4月19日、双方の側が画期的な「関係正常化を規制する原則に関する最初の合意」に署名し、正常化に対するコミットメントを述べた。2015年9月まで対話が続き、双方とも対話の合意を実施した。その中には、北部のセルビア人多数の市政機能およびベルグラードが資金提供する地方の警察や治安要員をコソボの行政枠組みの中に統合することも含まれていた。対話への取り組みは2015年10月の「EU‒コソボ安定化連合協定」の署名となり、2015年12月のセルビアのEU加盟プロセスに関する新しい交渉のページの始まりとなった。しかし2016年になって双方がエネルギー、電気通信、それにセルビア人が多数を占める自治体の連合もしくは共同体の樹立に関する2015年8月25日合意の実施など、話し合いが困難になったことから、進展が減速することになった。
2016年7月現在、113加盟国が独立国家としてコソボを承認した。