東ティモール
もう一つの国連の成功物語は、東ティモールを独立へと導いたプロセスである。国連が1999年に実施した直接投票で東ティモール人民は独立への道を選び、国連は大規模な活動を展開して東ティモールの独立移行を監視した。
ティモール島はオーストラリアの北、インドネシア共和国を形成する群島の南中央部に位置する。同島の西側はかつてオランダの植民地で、インドネシアの独立に伴ってインドネシアの一部となった。東ティモールはポルトガルの植民地であった。
1960年、総会は、東ティモールを非自治地域のリストに載せた。1974年、ポルトガルは、自決への権利を認め、東ティモールの地位を決める暫定政府と人民議会を設立しようとした。しかし、1975年に入って新しくできた政党間で内戦が発生した。ポルトガルは事態の収拾を図れないと述べて撤退した。一方の東ティモール側は別の国家としての独立を宣言し、他方は独立とインドネシアとの統合を宣言した。
12月、インドネシア軍が東ティモールに上陸し、「暫定政府」が樹立された。ポルトガルはインドネシアとの関係を断絶し、問題を安全保障理事会に訴えた。理事会は軍隊を撤退させるようインドネシアに要請し、東ティモール人民の自決への権利を尊重するようすべての国に訴えた。1976年、「暫定政府」は議会のための選挙を行った。議会が開催されるとインドネシアとの統合を決めた。インドネシアはその決定を支持する法令を公布し、独立支持派は武力抵抗を開始した。1983年、事務総長はインドネシアとポルトガルとの会談を開始した。しかし、事務総長の周旋を通して合意が成立したのは1999年になってからのことであった。これによって国民協議の道が開かれた。
こうした合意に基づいて、国連東ティモール・ミッション(United Nations Mission in East Timor: UNAMET)が有権者の登録や公式の投票を組織し、実施した。しかし、1999年8月、45万人の登録有権者のうちのおよそ78.5パーセントがインドネシア残留による自治達成に反対した。独立に反対する民兵団が組織的な破壊と暴力のキャンペーンを展開し、多くの人々が殺害された。そのため20万人以上の東ティモール人が国外へ逃亡した。集中的な会談の結果、インドネシアは国連承認の多国籍軍を展開させることに同意した。そして9月、安全保障理事会は、東ティモール国際軍(International Force in East Timor: INTERFET)の派遣を承認した。INTERFETの支援によって平和と安全が回復した。10月、安全保障理事会は、東ティモールの独立までの移行期に全面的な行政と立法の権限を持つ国連東ティモール暫定行政機構(United Nations Transitional Administration in East Timor: UNTAET)を設立した。
2001年8月、東ティモールの有権投票者の91パーセント以上が88人の制憲議会議員を選ぶために投票所へ向かった。制憲議会は新憲法を起草して採択し、将来の選挙と完全な独立への移行のための枠組みを作ることになっていた。2002年3月、制憲議会は初めての憲法の公布に署名した。翌月、大統領選挙によって、シャナナ・グスマンが82.7パーセントを得票して大統領に選出された。そして、2002年5月20日、東ティモールは独立を達成した。制憲議会は国民議会となり、国名をティモール・レステに改称した。その年の9月、国連の191番目の加盟国となった。