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見学先

国連のガイドツアーは、国連に関する簡単な説明で始まります。ツアーの主要な見学先は、会議ビル内の安保理、信託統治理事会、経済社会理事会の各議場です。

ツアー中、会議の様子をみる機会もあるかもしれません。国連本部では、年間平均5000を数える公式会合が開かれていますが、一部の理事会議場は非公開です。ツアーでは、各理事会の機能や構成、現在の活動、国連システムについての説明があります。

平和維持活動、非植民地化、軍縮問題に関する展示、加盟国が寄贈した芸術品、タペストリー、壁画、モザイク画、彫刻もみることができます。

最終見学先は、国連本部内で最も大きく、またよく知られている総会ホールです。その後、パブリック・コンコースへと案内されますが、ここには郵便カウンターギフト・センターブックショップ喫茶店、トイレがあります。

国連バーチャルツアー

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スライドショー

スライドショー

国連ボランティアサービス、レークサクセス、1950年10月

米国国連協会、ツアーガイド、1952年

国連ツアーガイドたち、加盟国国旗の前で、1989年8月

国連ツアーガイドたち、国連庭園で、1997年4月

ガイド・ツアーの歴史

国連本部がニューヨークに建設されるより前、レークサクセスでは、ボランティアたちがツアーを実施していました。ニューヨーク国連本部でのガイドツアーが始まったのは1952年です。1955年までは、国連協会が10人のガイドを雇い、運営していましたが、その後、ガイドツアーは国連広報局に引き継がれました。国連本部は当時のニューヨークに新しいビル群として加わり、エンパイアステートビル、自由の女神、ロックフェラー・センターとともに、人気観光スポットとなりました。

1952年以降、これまでにガイドツアーに参加したひとの数は、3700万人に上ります。これまで最も人数が多かったのは1964年で、年間120万人にも上りました。現在では、年間のツアー参加者は、およそ40万人といったところです。普通、最も参加者が多い時期は5月で、学校の生徒たちがグループで訪れます。

ツアーガイドの人数はその年によって変わります。1953年には、50人のガイドがいました。1969年には、41を数える国籍のガイドたちが37ヶ国語で国連本部の案内をしました。今日、ツアーガイド班は31国籍の58人を擁し、20ヶ国語を超える言語でツアーを行っています。

当初1ドルだった参加料金は、現在7.5ドルになりました。20-30歳の女性たちだけで始まったツアーガイドに1977年、初めて男性が加わり、現在では、ガイドの約4分の1が男性となっています。

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国連ツアーガイドたち、国連庭園で、2001年3月

ガイドについて

国連ツアーガイドたちは、毎日、国連本部を訪れる人々と直接接することから、「一般の人々とつながる国連大使」と呼ばれます。ガイドたちは、国連の活動に対する人々の認識を形成するうえで、重要な役割を演じます。ガイドたちは、世界中から様々な背景をもちながら、国際問題について共通の関心をもって集まった若者です。

国連ツアーガイドになるには、英語と、もうひとつの言語に堪能であることが必要です。大学卒業資格と、パブリック・スピーチの技能が求められます。採用後、集中訓練を受け、国連の歴史、国連主要機関の機能や国連システムの活動について学びます。ツアーのために用意されたスピーチ原稿というのはありません。各ガイドが自ら話す内容をつくります。

年間を通じて、ガイドは毎朝、国連の最新の動きについて説明を受け、自らのもつ情報を更新します。ガイドたちは、地雷、子どもと武力紛争、地球温暖化など、それぞれの専門家から定期的に説明を受けます。国連ガイドは毎日、ブロンクスの小学6年生、ブラジル・アマゾンのヤノマニ人グループ、ウェストポイントの士官候補生、ガールスカウト、ニュージーランドの家畜ブリーダーなど、様々な人々に対応し、経験をつんでいきます。

朝のブリーフィングを受けるガイドたち

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地雷と小火器の展示を見学する子どもたちとガイド

オララ・オトゥヌ事務総長特別代表(子どもと武力紛争担当)とガイドたち、
代表のブリーフィング終了後

 

 

1950年代のガイドたち

 

 

エバン・ピーコンのデザイン、1969年

 

 

エディスヘッドのデザイン、1977年

 

 

クリスチャン・ディオールのデザイン、1982年

ユニフォームについて

国連のツアーガイドが着た制服のほとんどは、国際的に有名なデザイナーによって作られました。

1950年代のフライトアテンダントが着た制服をもとに、ツアーガイドの最初の制服が作られました。
その頃だけ、肩章と同様に帽子がガイドの制服の一部になっていました。エバン・ピーコーンが2色のミニスカートの制服を作ったその年の1969年まで、このコンサバティブなスタイルは続きました。

1977年には、ハリウッドのデザイナー、イーディス・ヘッドが新しい制服のデザインをし、国連に寄付をしました。これはネイビーブルーをあしらった国連ブルーのスカートとジャケット、ならびに国連マークの入ったスカーフを添えたものです。

1982年には、フランスのデザイナー、クリスチャン・ディオールがコンサバティブなスタイルのベルトを付けネイビーブルーのスーツをつくり、その3年後、アメリカのデザイナー、ハーブ・ベナードが仕立てのネイビーブルーの制服をつくりました。

1988年には、イタリアのデザイン会社、ベネトンが新たな制服をつくり、国連に寄付をしました。
これまでのスタイルを一新したもので、黒と白の千鳥格子柄の軽いウール素材のスーツに、トップスにロイヤルブルーのニットを合わせたものでした。

1995年、国連は、Jones New York(ジョーンズ・ニューヨーク)からネイビーブルーの"エグゼクティブ・モデル"を買いました。このクラシックなスーツは黄色の半そでのトップスと国連マークの入ったスカーフとよくあっていました。

イタリアのデザイン会社、モンドリアンがデザインし提供した制服は、クラシックな優雅さと多様性、そして着易さ持ち合わせています。テーラーメイドで仕立てられたネイビーブルーの女性と男性のスーツには、薄いブルーのブラウスあるいはワイシャツ、そして国連マークの入ったスカーフまたはネクタイがあわせられました。そして、マタニティドレスが初めて導入されました。さらに初めて、イタリアの靴会社、ヴァレ・ベルデが靴をつくり、国連に提供しこれが制服に加わりました。同社のクラシックラインの靴は履き易さとスタイル面での条件、すべて満たしていました。この制服と靴の導入にあたっては、2001年10月24日に報道機関を招き、特別式典を行いました。

また、ガイドは、制服の代わりに自国の服を着ることができます。こうしてガイドツアーにたくさんの色彩が加わり、多様性が生まれるのです。

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ハーブ・ベナードのデザイン、1985年

 

 

ベネトンのデザイン、1988年(ハビエル・ペレス・デクエヤル事務総長とガイド)

 

 

ジョーンズ・ニューヨークのデザイン、1995年

 

 

ガイドライン

ツアーの合間、ガイドはガイドラウンジに待機し、お互いの経験を分かち合います。毎日、世界各国から国連本部を訪れ、ツアーに参加する人々との多くの時間を共有することから、そこに生まれる物語はつきることがありません。そのうちのいくつかを皆様にお話ししましょう。

国連ツアーガイドとして働くとは

人々を啓発する

ガイドとして、国連本部を訪れる人々と直接接し、それらの人々が国連を理解するうえで、多少のインプットを提供するのは、やりがいのある仕事です(Hawa Taylosr-Kamara、シエラレオネ)

ガイドとして、人々の国連理解に影響を及ぼすというのは、私にとってとても意味あることです。人々が私のところに来て、国連について多くのことを学び、ツアーをとても楽しんだと話してくれるとき、とてもやりがいを感じます(Holly Tyson、中国)

視野を広げる

ツアーガイドとしての仕事を始めてから、私は客観的な考え方ができるようになり、また世界の多くの人々の窮状を知りました。ガイドになって、今、とても良かったと思っています(Anne Dewhurst-Bingham、米国)

たくさんの異なる国々から国連を訪れた人々を案内するとき、国連が世界じゅうの人々の集まる場所であることを実感します(Laura Silver、米国)

爆笑の渦

「どこの国から来たのですか」。私は一度、ツアーガイドのスタート地点で、訪問客に尋ねたことがあります。「ベネズエラです」。「私はインド」。「ドイツから」。オランダから来た訪問客は「私はチューリップの国から来ましたが、あなたは」と私に尋ねてきました。私が、「パンダの国から」と応えると、ある訪問客は、微笑みを浮かべて「ワシントン動物園から?」と言いました。皆、笑いをこらえ切れず、ふき出してしまいました。別の人がすぐに、「中国、中国」と言いました(Shiyung Sang、中国)。

ガイドの終了地点で、「安全上の理由から着用しているステッカーをはずしてください」といつもの決まり文句を言った後、ある女性ガイドがツアーに参加した人々の数を確かめていました。数分後、その中の若い訪問客がスニーカーを脱いでいるのに気がつきました。その若者たちは、指示に従ったつもりで靴を脱いだものの、なぜそうしなければならないのか当惑している様子でした。ちょっとしたアクセントの違いなのに、たいへんなこと騒動になってしまいました(Raffaella De Lia、イタリア)。

子どもたちの案内

子どもたちの参加者に国連本部の案内をすることは、ガイドとしてやりがいのあることのひとつです。子どもたちがガイドたちに投げかけるあどけない質問に、思わず苦笑してしまうこともあります。総会議場で、子どもたちに問われたことのうち、いくつかをご紹介します。

「外交官の耳が大きすぎて、イヤフォンができなかったら、どうするの」

「この議場には何頭ぐらいの恐竜を入れることができますか」

ヨルダン(Jordan)のネームプレートを見て、「マイケル・ジョーダンもここに座るの」と質問した子どもがいました。

7,8年前のある日、私は大人14人、子ども2人のグループを案内していました。軍縮の展示場で、私がそれらの訪問客に対し、対人地雷とは何か、一つの地雷のコストはどのくらいか、質問しました。大人たちの顔を見ながら、答えを待っていると、一人の子どもが言ったのです。「一つの地雷で人間ひとりの命」。沈黙が続きました。子どものこの答えに、私は胸を締め付けられる思いでした。涙がでそうでした。それこそ本当の答えです。地雷を作るのにいくらかかるのかということよりも、それによって人間の命が奪われるということが一番大きな問題なのです」(M. Carolina Ramirez、コロンビア)。

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連絡先 ガイドツアーホームページ